関係ねえな
幾ばくか時間が過ぎてようやく深雪が動き出した頃に、ちょうど雨音が帰ってきた。
雨音は妙に勘がいい。雨音に適当な挨拶をしたきりテーブルに頬杖をついている夏日を見て、何かを察したようだった。カウンターの奥でどんぶりにご飯を盛り付けている深雪に向けた雨音のブランデー色の目の奥で、好奇の色が光っている。
「なんか手伝う?」
深雪は小さく息を吐いた。何も言わずに、三人分の味噌汁と長芋の短冊が乗ったお盆を指差す。
雨音はそれを手に取って、夏日のいるテーブルに運ぶ。
「準備手伝えよ」
むすっとした表情でテーブルクロスの柄を見ている夏日の視界に入り込んで雨音が言うと、夏日は素直に立ち上がった。食器棚を開けて、中からコップを取り出し、冷蔵庫を開けて中から浄水ポットを取り出す。
夏日の巨躯の後ろで、深雪が鮮やかに漬かったマグロを白米の上に乗せていく。仕上げにネギを乗せる。出来上がった漬け丼をカウンターに乗せていくと、ちょうど空になったお盆を持った雨音がきて、それをお盆に乗せていく。夏日が水の入ったコップを乗せると、雨音から奪うようにしてお盆を持った。
料理の支度を終えて、三人で席に着く。特に会話もないまま、それぞれ食事を始める。
五分ほど重苦しい空気で食事が進む。否、そう思っているのはきっと深雪と夏日のふたりだけで、ふたりの気まずさなんか知ったことではない雨音が、呑気な声で鈍重な空気を破りちらした。
「ねえ深雪、昨日さぁ、ぼく、ヒカリさんに褒められたんだ。いつもシャキッとしてるねって。ぼくがいると店が明るくなるんだって」
夏日がいる時はあまり喋らない雨音だが、こういうときは、妙に饒舌になる。気まずいふたりに気を使って喋っているのではない。夏日がいつもより静かだから、深雪とふたりでいる時のように喋るのだと深雪は思う。
「おまえが? ウソだろ。お世辞を間に受けんなよ」
深雪が口を開くよりも先に、夏日が吐き捨てるように言った。夏日の機嫌が悪い原因の一つは明確なのだけど、もう一つは、雨音が自分以外の相手への恋心に舞い上がっているからであろう。深雪は下唇を歯で触って、漬け丼を一口頬張った。
「お世辞じゃない。ヒカリさんはそんな人じゃない」
鋭い目つきを夏日に向けて、雨音が唇を尖らせる。夏日はそれ以上何も言わずに、コップの水を飲む。
ふん、と鼻息を吐いて、雨音が正面から隣へと顔を向ける。細められていた雨音の赤銅色の瞳が、深雪の方へ向けられると丸く広がる。開かれた瞼の中で、紅茶のキャンディみたいな虹彩が天井を向いてふわふわと彷徨う。
「深雪、今度ウチ来る?」
「えっなんで? 僕出禁でしょ?」
今度は深雪が目を丸くして、赤銅色の瞳で雨音の目を見た。しかし彷徨い続ける雨音とはし 今度は深雪が目を丸くして、赤銅色の瞳で雨音の目を見た。しかし彷徨い続ける雨音とは視線が合わなかった。
「いや、ヒカリさんがおまえを見てみたいって」
雨音はなんだか、不満げな顔をしている。それとも照れているのかもしれない。深雪と夏日にはいつも勝気な態度をとる雨音である。かわいらしくしおれているのが珍しい。「ふうん」と吐息を返して、深雪が返事をしようとしたところに、またもや夏日が声を被せた。
「おれは?」
「おまえは一生出禁」
ぴしゃりと即答。夏日ははっと短い息を吐いた。
「ひっでぇ。バイトしてる雨音見てみたいのになぁ。絶対おまえ、テンチョーにデレデレしててダッセーよ」
鋭い吐息に次いで吐き出されたのは、険のある言葉。攻撃的な言葉をあまり使わない夏日の発言を受けて、雨音はわずかの間、驚いたように目を見開いた。しかしそれも一瞬のこと。彼の丸い目はすぐに降りてきた眉山に潰されて平べったい形に変わる。薄く開いた眼の奥で、仄かな怒りの色が光っている。
「うっざ。おまえには関係ないだろ」
「あー、そうだな。雨音にも深雪にもおれは関係ねーよ」
声を荒らげる夏日が、深雪を見た。彼の険しい目つきと目が合った深雪は凍り付いたように身体を硬直させて、夏日から目をそらせなかった。深雪には永く感じられた刹那の間、夏日の方から目をそらされた。うつむく深雪。雨音がちらりと深雪の横顔を見て、すぐに夏日の方へとその目を向けた。
「何拗ねてんの?」
雨音が鋭い声で夏日を刺す。夏日は涼しい顔をして、目の前の食事をものすごい勢いで平らげて、席を立つ。
「悪い、おれ今日はもう帰るわ。ごちそうさま。うまかったよ」
そう言いながらさっさと食器をまとめて、玄関の方へ足早に歩いて行った。迷いなく上下する夏日の背中を嗤うように、雨音が強く短い息を吐いた。深雪は夏日に、何も言えなかった。雨音が帰ってくる前のことだって、今だって、深雪が夏日に何かを言ったところで状況が変わるはずもないことはわかっている。雨音と同じように、夏日も結構頑固なのだ。けれど、なにか一言でもいうべきだったのではないか。今さらどうしようもない後悔の念が、深雪の心を焼いていく。
夏日から雨音への、深雪から夏日への、消えない執着心。それは煙のように燻って、沈澱して、心に染み付いて離れない。
この夜深雪は、雨音の部屋に行かずに家を出た。




