ぐちゃぐちゃ
軽く片付けをした深雪がシャワーを浴びてリビングに戻ると、さっさとシャワーを浴びて戻ってきていた夏日がテーブルの前でぐんにゃりとだらけていた。
「早っ」
「かーさんにもよく言われる」
夏日がにっと白い歯を見せた。深雪も彼に笑顔を返して、首に掛けていたタオルで髪を拭く。タオルを首に掛け直すと、それを見ていた夏日が「おじいちゃんみてー」と笑った。深雪はそれを黙殺して、夏日の背後を通り過ぎる。深雪の後ろで、夏日が椅子を引いた音が聞こえる。クリーム色の木で作られた階段を踏む。深雪の軽い足音に続いて、後ろから、重たい足音が響いてくる。
螺旋階段を登り切って少し歩いて、自室に入る。夏日が続いて入ろうとしてきたのを確認してから、扉を閉める。「おい、子供みたいなことすんな」抗議の声と共に、締まり切る前にドアノブを掴まれて止められた。数秒扉の主導権を奪い合ってから、手を離す。
口をへの字に曲げながら入ってきた夏日は、勉強机の上にゲーム機とソフトのケースが置いてあるのを見て、目を輝かせた。
「もしかしてもうやった?」
「やってないよ。機械の設定だけしたんだ」
首を横に振る。ソフトの刺さったゲーム機を手渡すと、夏日はそれを受け取ってベッドに座った。深雪も夏日の隣に座る。
隣から香るのは、湯上がりの暖かくて柔らかい香り。湯上がりに会うことなんてほとんどないので、隣から感じるいつもより熱い夏日の熱も、いつもと違う匂いも、深雪の心拍数を格段に上げさせた。自分の熱と匂いが彼に伝わってしまうのが気になって、深雪はみじろぎするふりをして夏日から少しだけ離れた位置に座り直した。
夏日が慣れた手つきで電源を入れて、ゲームを起動する。
「深雪、全然ゲームやんないよな」
急に夏日がこちらを向いて、黒い瞳と深雪の視線が真っ直ぐに絡む。上気した夏日の頬に心臓が跳ねる。それと同時に雨音と間違えて告白された時のことを思い出して、深雪は心を少しだけ翳らせた。夏日は絶対に自分のことを見ない。それに、深雪も夏日も男なのだ。それなのに彼を思い続ける罪悪感が、煙のようになって深雪の心に沈殿していく。
「うん……だって死にたくないもん」
罪悪感に絡め取られて回らなくなった頭で、ぼんやりとした返答をする。夏日は深雪の気持ちなんか全く気づいた風もなく、目を丸くして間抜けな声を上げた。
「死……? 死なないゲームやればいいじゃん」
「そんなのあるの?」
「あるよ。今度貸してやるよ」
そう言いながら、夏日の目はもうすでにゲーム画面に向けられていた。
夏日の隣で、あまり彼に近づきすぎないようにしてゲームプレイを見る深雪。ゲーム内で選択肢が出るたびに深雪に決めさせる夏日のゲームプレイは、一言で言うと、結構下手。キャラクターがすぐに死ぬ。それを深雪が笑うと、強引にゲーム機を手渡されて操作させられた。夏日よりももっと頻繁に死んだので、結構下手でも深雪よりはうまいようだ。
しばらく遊んでいるうちに、夏日がおもむろにベッドに横たわった。枕に顎を乗せて、うつ伏せの姿勢でゲームを続ける。
一人用の小さなベッドだ。深雪が夏日に倣って隣に寝そべるのは、色々とまずい気がする。机のそばから椅子を持ってきて、深雪は椅子の背を抱えるようにして座った。
真剣にプレイしている夏日のゲーム画面を見ていたら、いつの間にか、時計は夜の九時半を指していた。あと三十分で雨音が帰ってくる。
「夏日、きりついたらやめるよ」
声を掛けると、いつも通りの気の抜けた返事をしながら夏日が顔をこちらに向けた。それから何かに気がついた顔をして、BGMが流れ続けているゲーム機を手放してのそりと起き上がる。ぎしっ。ベッドのスプリングが軋む音。
「深雪」
深雪のそばに、夏日が立つ。長身の巨体が眼前に立つ圧迫感にやられて、深雪は思わず椅子を抱えたまま体をこわばらせた。夏日が屈むようにして、長身を畳む。椅子の座面の方に向けて、夏日が手を伸ばす。彼の視線の先には、深雪の腰。椅子と体に巻き込まれて、服の裾が捲れ上がっている。夏日の節ばった指先が、服の裾を無遠慮に掴み上げた。冷房の効いた空気に、深雪の白い背中が晒される。
「えっ、うわっ」
深雪はまだ、彼の行動の意味を理解していなかった。急なことに頭が追いつけなくて、真っ白になる。顔が熱い。脳内で叫びながら夏日の顔を見る。夏日の眼がなんの表情も湛えていないことに気がついて、深雪は全身の血の気を引かせた。
夏日が、硬質な声で、諭すような口調で深雪に尋ねる。
「おまえ、その傷、どうしたの?」
夏日の視線の先には、深雪の腰。そこに走るのは、無数の線状の引っ掻き傷。昨夜、雨音が深雪につけた傷。
深雪は目を伏せて、何も言わなかった。夏日もしばし口を閉じた。深雪の服を手放して着衣の乱れを治すと、ベッドに腰を下ろす。
ぎし。ベッドのスプリングが軋む音。深雪を責めるように、妙に部屋に響いた。わずかの間の静寂。夏日がゆっくりと、口を開いた。
「おまえ、夜中に出かけてるのってそういうことか……? それ、どう見ても自分で引っ掻いてつく傷じゃないだろ」
深雪は硬く口を閉ざしたまま、何も言わなかった。流れるゲームのBGMと夏日の気迫だけがこの部屋を支配していて、まるで深雪は、この世界に存在を許されていないかのようだった。
「やめろよ、そういうの」
夏日の追撃。深雪は何も言わなかった。否、言えなかった。この傷は雨音につけられたものだ。しかし、雨音とのことは夏日には言えない。別にやましいことは何もない。彼に話したことが雨音にバレたら怒られるというのを除けば、別に言ってしまっても何の問題もない。けれど、夏日はそれを信じてくれるだろうか。それに、深雪が夜中に出かけている理由は寸分違わず夏日の推測の通りなのだ。
「女遊びか……知らないけど、おれが、おまえとか雨音に構うせいでそういうことしてるんなら、別におれ、家で一人で飯食うから」
諭すような夏日の低い声が、深雪を責める。深雪が夜中に出歩くのは夏日のせいではなく、深雪が選んで行った行動なのだ。行動の背景に夏日の雨音に対する言動が絡んでいたとしても、夏日には何の責任もない。それに、夏日が自分や雨音と一切の関わりを断ってしまうのは深雪にとっては縋る先を無くしてしまうようなものである。それだけは絶対に避けたかった。なんと言えば彼は納得してくれるだろうか。深雪の思考停止した頭では、その答えにたどり着くことはできなかった。
しばらく黙したのち、深雪はようやく、重たく乾いた口を開く。その声は掠れていて、ひどく震えていた。
「おまえには関係ないだろ。僕は雨音じゃないんだよ」
そういうと、夏日が眉根を寄せた。鋭い目つき。未だかつて見たことのない、いつもおおらかな夏日の怒りの表情。深雪は体を硬直させて、夏日が放った言葉を食らう。
「雨音は今関係ないだろ。友達のこと心配して何がわりいの?」
夏日の鋭い言葉を受けて、深雪は身体を震わせた。絶望や恐怖に震えたのではない。夏日は今、雨音ではなく、自分を見ている。彼自身が、そう言ったのだ。昏い高揚と罪悪感で全身が粟立って、震える。今夏日の視界にいるのは、薄汚れた自分。こんな自分を夏日の視界に入れたくないけれど、彼は今、自分だけを見ている。
しかし、この瞬間にだけ夏日が自分のことを見ていたとしても、夏日と深雪は永遠に友達以上の関係にはなれないのだ。湧き上がる高揚とそれを塗りつぶそうとする絶望とで、頭の中がぐちゃぐちゃと絡まる。
夏日が深くため息をついた。枕元に捨ててあったゲーム機を取り、電源を切る。不穏な空気のBGMが止まった。こちらに顔を向けた夏日の目は、深雪を見ていなかった。
「トイレ借りるわ」
吐き捨てるように言って、夏日が部屋を出る。扉の開閉音が、部屋にひとり残された深雪の耳に妙に響く。夏日の足音が階下に遠のいてからも、深雪はしばらく椅子の上から動けなかった。




