支度
夕方だというのにまだ暑い。ようやく冷房が効き始めたリビングには、椅子に座って暑さにうなだれている夏日がいる。キッチンの窓に掛けられた薄いカフェカーテンは夕焼けで橙に染まっていて、冷風に当たって揺らめいているのも相まって、まるで生きているかのようだった。
冷蔵庫とキッチンカウンターの間に立ち、冷蔵庫の中身と今晩の献立を照らし合わせていた深雪がリビングの方へ目を向けると、机に突っ伏したままの夏日の黒い瞳がこちらを見ていた。夏の日差しに焼かれて春先よりもこんがりとした夏日の唇が、開かれる。
「なー深雪」
「雨音はバイトだよ」
食い気味に深雪が答えると、夏日は苦笑いをこぼしながら首を振った。テーブルから離れてしなびていた背筋を自然に戻すと、再び口を開いた。
「違う。今日泊まっていい?」
「えっなんで? 家隣なんだから帰れよ。別に遅くまでいるのはいいけど」
薄茶色の眼をまんまるにして深雪が頓狂な声を上げる。背後から、手を離した冷蔵庫の扉がひとりでに閉まる音。夏日は深雪の様子を気にしたふうもなく、いつもの調子で言葉を続ける。
「明日土曜日だろ?」
「うん」
深雪は首を捻りながら頷く。泊まるのと、明日が土曜日であることの関連性がいまいちわからない。何もわかっていない様子の深雪が面白かったらしい。夏日は薄く笑って、
「前にゲーム貸してくれるって言ってただろ。一緒に朝までやろうぜ」
「夏日元気だね。月曜日寝坊してもしらないよ? あと僕、眠くなったら寝るからね」
半眼の深雪に「おー」といつも通りの気の抜けた返事をして、夏日は黒い瞳をきゅっと天井の方へ向けた。
「今日のメシ何?」
夏日の視線の先に何もないことをわかっていながらも、深雪もつられて天井に目をやる。白い光を放っているシーリングライトに汚れが溜まっているのに気がついて、今度夏日に手伝ってもらって掃除しようかなあなんて一瞬考えたせいで一拍遅れて返事をする。
「まぐろの漬け丼と、長芋の短冊とあおさ汁」
「うわっ最高じゃん。雨音かわいそ」
「雨音の分もあるよ。今日は帰ってから食べるって」
夏日に背を向けて冷蔵庫に向き直った深雪がそう言うと、夏日は不可解なものに出会った時の犬みたいな仕草で首を傾げた。
「そーなん? テンチョー休みなの?」
「らしいよ」
「ふーん」
雨音がバイトの日は、基本的にバイト先の喫茶店で賄いを食べて帰ってくる。しかし、彼の想い人である店長の休みと被った日には、雨音は賄いを食べずに帰ってくることがある。今日がその日。バイトに出かける前にまぐろの柵が冷蔵庫にあるのを発見して、今日は家で食べると喜び勇んで出かけていった。雨音のぶんを確保するために夏日にたくさんあげようと思っていたぶんがそっくりなくなることになったのは、夏日には内緒にしておこう。
「遅くなるけど、雨音と食べる?」
「文句言われそー。でもその方がいいか」
おじいちゃんみたいな顔で渋面を作って、夏日が頷く。
「あはは。準備だけしといて先にゲームやろうよ。夏日手伝って」
「……いや、でも」
もごもごと口の中で言って、首が据わっていないような曖昧な動きで首を振る夏日。いつもの調子が急に狂った夏日がなんだかかわいらしく見えて、深雪は冷蔵庫の方に顔を向けて口元を緩ませた。
「ぶちまけても怒らないから。早く終わればその分いっぱいゲームできるよ」
「……おう」
しぶしぶと言った感じで頷いて、夏日が椅子から立ち上がった。深雪は苦笑して、キッチンカウンターに適当に置いてあったスマートフォンを手に取った。細っこい指先で操作して、漬け丼のレシピを開いてカウンターに戻す。画面を覗き込む夏日に調味料が書かれた欄を指し示す。
「じゃあ夏日、これを測って入れて。入れたらレンジに一分かけて」
夏日に指示を出して、深雪は冷蔵庫を開けた。水につけた昆布が入っている手鍋を取り出し、コンロに置いて火にかける。皿は用意したものの計量スプーンの違いがわからない様子の夏日に指示を出す。
「こっちが大さじ、こっちが小さじ」
「中さじはねぇの?」
「うちにはないよ。大さじの半分が中さじ」
ふうんと言ってようやく計量を始めた夏日を尻目に、深雪は再び冷蔵庫を開けた。赤味噌と刺身を取り出して、カウンターに置く。柵の刺身をまな板に置いて、薄くスライスしていく。全て切り終えたところで、夏日がようやく計量を終えて調味料をレンジに掛けた。
「夏日ビニール袋取って」
「これ? はいよ」
冷蔵庫横の棚からビニール袋を取り出して、夏日がこちらに差し出してきた。深雪が刺身で汚れた手を上げて見せると、袋を広げて置いてくれる。袋に切った刺身を入れて、手を洗う。
沸騰し始めた鍋から昆布を取り出し、皿に乗せる。お茶用のパックにかつおぶしを詰めたものを一つ、鍋に入れる。
手持ち無沙汰になった夏日が鍋を覗き込んでくる。
「出汁取れたら、味噌入れて」
「おれがやるの?」
無言で笑顔を向けると、夏日は唇をへの字に曲げた。
とんでもない量の味噌を小鍋に入れようとした夏日と一悶着起こしながら味噌汁を完成させると、夏日は先にシャワーを浴びてくると言って家に帰った。
深雪は彼に手伝ってもらって手早く終わらせるつもりだったのだけれど、却って余計に時間がかかった気がする。それに、夏日の料理に対する知識があまりにも無いことにびっくりして、余計に気を揉んだ。小さなため息をひとつ。夏日がいなくなって急に静かになったリビングに妙に響いた。




