混ざり合う夜
「深雪」
ドアの向こうから雨音のくぐもった声が聞こえて、続いて蝶番の軋む音。扉の隙間からささやかな光と一緒に、華奢な影が滑り込んできた。
雨音がまた包丁でも持っているのではないかと警戒した深雪は、手元のリモコンで部屋の電気をつけると、布団から起き上がって雨音を見た。
雨音は深雪の警戒心を察したらしい。わざとらしい動きで、空っぽの両手のひらをこちらに見せつけてくる。パジャマの胸ポケットを叩いてから、深雪の方へと歩み寄ってきた。深雪は電気を消して布団に横たわる。雨音がベッドに乗る。ベッドのスプリングが軋んで、雨音の体重を受け入れる。掛け布団の中に入り込む雨音。腕を差し出すと、そこに雨音の頭が乗せられる。首元で雨音の猫っ毛が暴れてこそばゆい。
雨音の細い指先が、服の中に滑り込んでくる。腰に手を触れられて、深雪はくすぐったくて身体をよじった。
「深雪」
雨音が口を開く。今日は愚痴を聞いてほしい日らしい。雨音が深雪のベッドに来るときにする行動は大体二種類に分類される。黙って抱きついてくるときと、小さな声で愚痴を言うとき。深雪は何も言わずに、雨音の次の言葉を待った。
「ヒカリさんの彼氏のこと、覚えてる?」
深雪の顎先から、雨音のぼやけた声が聞こえる。首元に頭を押し付けられて、深雪は小さく咳をこぼした。
「DVヒモ男ってやつ?」
雨音は首肯して、言葉を続ける。
「あのクソ野郎、ヒカリさんの稼ぎが悪いって、また殴ったんだって」
深雪は何も言わなかった。雨音の声は震えていた。いつもは勝ち気に振舞っている雨音だが、その本質は、きっと深雪と同じなのだ。自分にないものを羨望して、自分の不運を呪って生きている。自分と何ら変わりない落ち込んだ片割れの背中に手を回して、深雪はそっと、小さな手のひらの熱で彼の背中を温めた。
「ぼくは、ぼくが、深雪だったら、ヒカリさんにあんな思いさせないのに」
深雪は静かに、息を吐く。あんな思いをさせる男を選んで離れないのは、ヒカリの方なのだ。雨音が正真正銘の男だったとしても、彼女がDVヒモ男と別れて、雨音と恋仲になる未来はないのではないか。自分に冷たい雨音ばかり見続けて、深雪の気持なんかにはちっとも気づかない夏日を想い続けている深雪は、そんなことを想像してしまう。おそらく雨音自身もそうなのだろう。深雪は何も言わなかった。
「殺してやりたい」
雨音の開かれた喉から、低い声が漏れる。獣の唸り声のような声だった。誰を想っての呪詛なのかはわからない。ヒカリに向けてなのか、それともそのパートナーに対してか、自分に対してか……それとも、深雪に対しての言葉だったのか。
「いっ、痛……」
雨音の薄い爪が、深雪の皮膚に食い込む。腰に爪を立てられて、強い力で引かれる。浅く皮膚が裂かれる痛みに反応して、深雪が身をよじる。雨音の肩を押すが、彼の身体は離れなかった。
「深雪、ぼくはおまえが許せない。おまえはぼくを置いて、男になって、ぼくだけが男でも女でもないまま、取り残される……」
首元に頭頂部を押し付けられて、深雪は咳をこぼす。なおも自分の皮膚を引き裂き続けている雨音の細い肩を、力いっぱいつかんだ。
「雨音、痛い。やめて」
「ああごめん……深雪」
茫洋とした声で謝罪して、雨音はようやく深雪の背面から手を離した。背中と腰を走る無数の線が疼く。不快感に身じろぎした深雪に、雨音が暗い笑みを向けた。
「……深雪。ぼくはいつか、おまえを壊して、死ぬよ」
「死ぬなよ。それに、僕はもうとっくに壊れてる」
雨音の細い髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。その手に甘えるように、雨音が頭を押し付けてきた。
「ぼくたち、ふたりでひとりだったらよかったのにな」
ぽつりとつぶやくような、雨音の声。深雪は何も答えなかったけれど、その代わりに、黙って雨音の背中に手を回した。こんな日に抱き合って眠ると、ふたりの境目がなくなって、一つの完璧な生き物になれる気がするのだ。雨音がどう思っているかは知らないけれど、きっと、雨音だって深雪とおんなじ気持ちを持っているのに違いない。
深雪が朝起きると雨音の姿はベッドから消えていて、どうやらいつの間にか自室に戻ったようだった。ベッドの空いたスペースにまだ残る雨音の体温をひと撫でして、深雪は起き上がった。




