嫉妬
小雨とはいえ雨が降っているこの天気では換気ができず、窓を閉め切った美術室は油絵の具の甘い匂いに満たされていた。
深雪は先程まで窓際の一番前の席でイーゼルにキャンバスをたてたりとごそごそと絵を描く支度をしていたが、いつのまにか終えたようで椅子に座っていた。小さなオイルポットの中で使い古した筆をかさかさと揺らす。ポットの中でとろみのある油が光を反射させながら揺れた。
「ねー深雪」
扉の方から低い声がして、手元から顔を上げた深雪がそちらに顔を向けると、そこには深雪と同じクラスの美術部員である平野がスケッチブックを持って彼の方を見ていた。
「まだ描き始めてない?」
「うん」
深雪が机にポットと筆を置くと、平野は手招きをしながら言った。
「こっち来て。ちょっと脱いでよ」
「えー、すぐ終わるならいいよ」
「わかった。一枚だけ!」
そう言いながら靴を脱いで教卓に登り始める平野。深雪はところどころに絵の具がついた黒いエプロンを脱いで、椅子にかけてから平野の元へと歩く。
教卓の上で膝立ちをしている平野の黒い頭を見上げると、平野は肩下まである黒髪を蛍光ピンク色のヘアゴムで束ねながら深雪に支持を飛ばした。
「足崩して座って、両手で花かんむり編んでるみたいにしてほしいんだけど」
「おっけー……こう?」
「おお、いいねえ。ちょっと右向いて?」
言いながら、彼はスケッチブックに鉛筆を走らせはじめている。「はいはい」深雪は素直に従って右を向く。
「いいよ〜ステキ! 美しいね〜深雪さん!」
「やめろそれ。きもちわるいな」
深雪がしばらくそのまま静止して平野の手元から湧く鉛筆の音を聴いていると、扉の方から女子生徒の声が飛び込んできた。
「あっ深雪ちゃんスケッチ大会? 私もやるー!」
小走りで深雪に寄ってきてかばんをごそごそとし始めた彼女に、深雪は平野指定のポーズのまま声だけで反抗した。
「えっ待ってよこれで終わりだから!」
「いいじゃん〜。なんか面白いポーズしてよ」
「やだよ。終わり!」
思わず首を振った深雪に平野がすかさず「ちょっとモデルさん、動かないでもらえます?」気取ったクレーマーのような口調で注意する。深雪は苦笑いを浮かべながらもう一度頭を振って、先程の角度に頭を戻した。
結局『深雪ちゃんスケッチ大会』は開催されず、平野と女子生徒のふたりで花かんむりを編む深雪をスケッチしたあとは各々自分の定位置について黙々と作業を開始した。
深雪は自分の肩幅よりも広い布張りのキャンバスに向かって、青い油絵の具をこすりつけている。青い絵の具で描かれているのは、ひまわりのような花。中心にはおそらくあとからそこに人物が描かれるのであろう、そんな形の黄色い空白。真っ白なキャンバスにいきなり描き始めるよりも、仕上がりの色と違う色をキャンバスに塗りたくってから絵を描くと良いらしいというのを聞いたことがある。――そういえば、いつだったかに夏日と雨音と深雪の三人で、ひまわりを背景に写真を撮ったっけ。深雪はそれでそんな絵を描いているのだろうか。
不意に準備室の扉が開き、扉の向こうからショートヘアの女子生徒が現れた。雨音と同じクラスの佐野だ。
「おつかれー」
「おつかれ」
彼女は準備室の扉を閉じると、眼前にある深雪に向けて手にした赤い軸のペンを差し向けて見せた。
「あっねえ深雪、これ、赤で合ってる? 緑じゃないよね」
一見すると意味のよくわからない質問だったが、深雪には意図が理解出来たようで、うんうんと大げさにうなずいている。
「合ってる合ってる。それで何描くの?」
「レッドリリーちゃん!」
「今推してる子だっけ? 描けたら見せてよ」
「やだ」
「なんで」
椅子の上でがっくりとうなだれてみせる深雪。にやにやとしながらそれを見ていた佐野は、廊下側の一番後ろの席に視線をやってからきょとんとした顔をした。
「あ、雨音くんもいたんだ?」
それからはっとした表情で手前の深雪と奥の雨音を見比べて(ちなみに平野ともう一人の女子生徒も、後ろで作業していた雨音に気づいた瞬間に彼女と同じ仕草をした)元気よく雨音に手を振った。
「雨音くんおつかれー! 課題やってるの?」
「おつかれ」
雨音は作業の手を止めて、軽く手を上げてそれに返した。そして静かに、ゆっくりと息を吐く。
「本当そっくりだよね、ふたり。一瞬間違えたかなってドキッとしちゃった」
佐野がぽつりと呟いて、深雪の二個後ろの席に座る。
深雪が雨音と同じ容姿であることをどう思っているか、雨音は知らない。けれど、深雪も雨音と多少なりとも似たような気持ちを持っているのではないかと思っている。
雨音は深雪の変化を恐れている。同じ姿形に生まれて、男でいることを許された深雪――“男の自分”の姿が、“男でいられなかった自分”から離れていってしまうことを恐れている。深雪一人だけが男のままでいられて、男として自然に変化していく現実を、雨音は呪っている。
現状、学校で過ごすときは、ふたりを見分けるためにラバーバンドの時計やズボンの裾のラインで見た目に差をつけている。その差を見ずにふたりの見分けがつく人物は、雨音の知る限りでは夏日しかいない。実の親ですら、友達ですら見分けがつかないふたり。しかし周りが深雪を男として認識して、雨音を女として認識しているというだけでふたりの扱いは一変する。男を羨望して、女として生きている雨音はそれを知っている。
雨音は机の上のデザインナイフを手にとって、片手で弄んでいた消しゴムの欠片を見つめた。今回の美術の課題は、消しゴムハンコを使った絵を作るというもので、雨音は喫茶店の柄を作ることにした。せっかくだから完成したら想い人であるバイト先の店長にプレゼントしようかなんて思って作り始めたのだが、そういったことをするのは、雨音が将来望む恋人関係というよりは、親子関係のようだと思ったのでやめた。
今彫っているのは、バイト先で使っているシンプルな白いコーヒーカップだ。普段から料理などしている深雪には負けるが、雨音はそれなりに手先が器用だ。それ故に適当に済ませれば授業時間内に終われたはずなのだが、仕上がりに対するこだわりが強いので手付きは遅い。このコーヒーカップを彫り終えれば、あとは授業のはじめに自分で選んだ茶色い画用紙にハンコを捺していけば終わりだ。あと少し。
「雨音ぇーー!!」
「痛っ」
教卓側のドアから突然飛び込んできたひなのの声に驚いて、手先がぶれて、指先を切ってしまった。左手の人差し指から、赤い血がにじむ。デザインナイフを置いて教卓の方を見ると、窓際の最前席で絵に描いたように硬直している深雪と、彼に抱きついているひなのが見えた。その少し後ろでは、佐野が引いた顔でふたりを見ている。
「ひなの、それぼくじゃない。深雪だよ」
後ろの席から声を投げると、ぽかんと口が開いたひなのの顔がこちらを見た。口を開けたまま、自らの腕の中で未だ目をかっぴらいて硬直している深雪の身体をそっと離し、彼の顔とこちらの顔を見比べて――
「あっ――ひゃぁっごめん、深雪くん、今のナシ! ごめんね!」
動揺したひなのに突き飛ばされた深雪は、椅子ごとよろめいたがなんとか持ち直して窓際に少し座標を移した。突然の事に言葉が出ない様子の深雪に、ひなのは手をぶんぶんと振り回しながら矢継ぎ早に言葉をぶつける。
「ごめんね、わたし、深雪くん男の子なのに」
そう言われて深雪は、頓狂な顔つきで目を見開いて小首を傾げた。
「えっ、雨音も男だよ?」
刹那の間。「……あっでもっ、身体は」口を開きかけたひなのの言葉を「身体より心の性別の方が、その人の本当の性別なんじゃないの?」深雪のぼんやりとしたのんきな声が遮った。
雨音は深雪に嫉妬している。自分みたいに歪まずに、素直な気持ちでこんなことが言えてしまうくらいまっすぐに育つことができた深雪に。
「……そう、かも。ごめんね」
ひなのはうつむいた。深雪は先程のひなののように手をぶんぶんと振りながら、加えて首までぶんぶんと左右に激しく振った。
「あっ、ごめん。その責めるつもりじゃなくてさ、ごめん」
ひなのは無言でかくりと頭を垂れて、うなだれたままつま先をこちらに向けた。
落ち込んだ表情でこちらにやって来たひなのになんと声をかけようか、雨音は考えあぐねていた。フォローはしてあげたいけれど、抱きついてくるのはやめてほしいし男として扱ってほしいのも本心だ。深雪の言ったことは何も間違っていないのだ。かける言葉が見つからない。
お互い無言のまま見つめ合い、ひなのが雨音の前の席にある椅子を引く。雨音と向かい合うように座ってから、言い淀むように目を伏せて、ひなのが口を開いた。
「雨音、今の聞いてた?」
「……うん」
雨音は静かに顎を引く。ひなのはゆっくりと目を閉じた。
「今までごめんね。もうしないから」
「うん」
「……イヤだったよね?」
「嫌っていうか、意識しちゃうから……罪悪感みたいな?」
首を傾げて言うと、照れくさそうな仕草でひなのに肩を叩かれた。どすっ。華奢な割に力が強い。痛い。
「やだ、えっち!
……わたしもズボン履こうかなあ」
「ん? うん」
彼女の言葉の意図が、雨音にはよくわからなかった。とりあえず適当に頷いた雨音に、それを察したひなのが解説を重ねる。
「だって、スカートだと風とか気になるし、おっさんに見られたりするじゃん。女のコだからスカート履かなきゃって思ってたけど、深雪君に言われてそんなんどーでもいいんかなーって思ってさあ」
雨音の通う学校には、男女ごとの制服着用のルールはない。そのため女子生徒の中にはひなのの言うような理由でズボンを履いている者もいるし、まれにスカートを履いて登校する男子生徒もいる。そんな具合で自由な校風なのに彼女が神妙な顔をして言う理由は雨音にはわからないけれど、女子には女子の苦労があるのだろう。雨音は何も言わずに頷いた。
「あっ雨音怪我してない? ばんそーこーあるよ」
弾かれるような動きで、ひなのに手を掴まれた。雨音よりほんの少し小さな手。その手はすぐに離されて、脇に置いたかばんをごそごそとし始めた。
「ひなのがデカい声出すから」
眉間を寄せて咎めるでもなく言うと、雨音の怪我の理由を理解したのかどうかはわからないが、ひなのは開いた手をひらひらとさせた。
「ごめんごめん。ほい」
「サンキュ」
ひなのに差し出された派手なピンク色のハート柄がプリントされた絆創膏を苦笑いしながら受け取って、薄く切った指先に巻きつける。
巻き終わってからそっとひなのに視線を送ると、彼女は雨音の手元をぼんやりと見ていた。暗い表情で伏せられたまぶたの奥で、彼女のグレーがかった黒い瞳が、雨上がりの夕日を浴びて光っている。薄い色付きリップが塗られて桜色に甘く光る彼女の唇が、控えめな動きで震えた。
「今日さ、雨音に話聞いてほしくて……」「ミヤとケンカしたんだろ?」
彼女の表情から事情を察していた雨音が言葉を被せると、ひなのは驚いた顔で目を見開いてこちらを見た。「さっすが雨音! 女心がわかる……」言いかけて刹那、口をつぐみ、「――イイオトコだねえ!」
「でしょ? 惚れてもいいよ」
「うーん。だって他のコのこと好きなんでしょ?」
彼女は雨音に想い人がいることを知っている。わざとらしく落ち込んだ仕草をして上目遣いでこちらを見てくる彼女に、雨音は軽薄そうなへらへらとした笑顔を返した。




