雨音は男が嫌い
雨音は男が嫌いだ。自分が持つことができなかった身体を持って産まれて、のうのうとそれを享受して生きている。
雨音は男が嫌いだ。その中でも、自分と同じ血を分けた深雪が一等嫌いだった。――いや、自分のたった一人の家族として大切にしてはいるので、嫌いというのとは少し違うのかもしれない。けれど、自分のきょうだいとして彼を愛するのと同じくらいに、彼を恨んでいるし憎んでいる。
同じ血を分けて、雨音が自分のものにできなかった体を手にして、しかもそのことを何も特別に思っていない。雨音は深雪に嫉妬している。――彼の全てを壊してしまいたいと、そう強く思うくらいに。
*
雨が降っている。梅雨の雨はなんだかねっとりとしていて、生ぬるい空気が肌にまとわりついて気持ちが悪い。
頬杖をついてぼんやりと教壇を眺める雨音の視界の中では、渋い声と顔とで女子生徒に人気がある世界史の教師が、黒板に向かってチョークを走らせている。削れたチョークの粉が、彼の手元から降り始めた雪のようにちらちらと舞っている。授業の内容をなにか喋っているが、窓際の一番後ろの席では雨の降る音に紛れてあまり聞こえず、いまいち判然としない。
雨の音、聞き取りづらく響く声、六限目の授業――あまりにも眠い。雨音は思わずあくびをこぼして、結構な大雨の降る窓の外に顔を向けた。二階から見下ろすグラウンドの砂漠は雨で潤っており、ところどころに薄暗い色の水たまりを作って水面がぴちゃぴちゃと揺れている。
見た目のせいか態度のせいか、雨音はよく成績がいいと思われがちなのだが、実はそうでもない。素質はあるので真面目にやればきっといい成績を取ることができるだろう。しかし本人にやる気がない。肝心なところで抜けている深雪も同じきらいがあり、ふたりしていつも同じくらいの平凡な数字が並んだ成績表を受け取っている。
雨音の斜め前で必死に板書を取っている夏日は、ああ見えて成績がとてもいい。雨音たちと違って勤勉なのだ。近眼らしく、授業中はいつも黒い樹脂フレームの眼鏡をかけている。黒い眼鏡に黒髪、日焼けした肌。全体的に黒っぽい印象の中で、制服の白い半袖シャツだけが真っ白に輝いている。
視界の遠くで、教師が教科書を手にしてぱらぱらとめくっている。雨の音と、生徒たちがペンを走らせる静かな音だけが支配する静寂。視界の端で、黒い頭がこちらを向いた。振り向いた夏日と思わず目を合わせてしまった雨音は、露骨に顔をしかめてみせる。彼はそんなことを意に介した風もなく、にんまりと笑った。彼と意味のないコミュニケーションを交わしてしまったことを悔やんだ雨音は、静かに深い息を吐いた。
雨音は男が嫌いだ。その中でも、夏日のことは特別嫌いだ。雨音が誰にも知られたくない、深雪でさえ知らない秘密を知っている彼。雨音の本当の姿を知ってもなお、自分に深く関わってこようとする夏日のことを、ひどく嫌悪している。
*
退屈な授業とホームルームが終わると、ようやく放課後だ。教室にみっちりと詰まっていたクラスメイトたちは順々に帰宅していき、あとは雨音含むマイペースな生徒数人が残っているのみだ。
雨足は先ほどより幾分か落ち着いており、もう少し待てば止みそうだった。授業中に終わらなかった来週までの美術の課題がまだ残っているので、雨が止むのを待ちながら片付けさせてもらおうかなんて考えながら、雨音はスクールバッグに教科書を詰めていた。
「雨音ぇ」
身体の横側から声を掛けられた雨音は、声のした方を向き、「あ、ひなの――うゎっ」女子生徒に抱きつかれて、手にした教科書を取り落としながら華奢な身体をのけぞらせた。ひとけの減った教室に鳴り響いた教科書の落下音。雨音が静かに教室を見回すと、数人の生徒と、ちょうど教室から出ようとしていたらしい夏日の顔がこちらを向いていたので誰とも目が合わないように俯いて、抱きついてきたポニーテールの女子生徒に視線を向けた。
「ねえ雨音、今日一緒に帰らない? 帰りに雑貨屋さん行こうよ。この前見つけたヘアクリップ買いたいの!」
以前よりは大分と偏見も差別も減ったようだが、トランスジェンダーというのはやはりどう扱えばいいのか周りも困惑するようだ。周りの男子生徒からも女子生徒からもなんとなくそういった扱いを受け、やんわりと距離を取られがちな雨音に対して普通に(というよりは、完全に女子扱いをしてくるのだが)接してくるひなのは、雨音の数少ない友達の一人だ。
薄い夏服越しに雨音の扁平な胸が感じるのは、彼女の胸の感触。下着に包まれているからだろうか、カバーの掛かったやわらかいクッションのような感触だ。ひなのは小柄で痩せている割に胸が大きいので、抱きつかれるとどうしてもその感触を強く感じてしまう。
友達とはいえ、雨音にとってのひなのは異性である。恋愛対象として見てはいなくとも、女性としての性的なパーツに対して意識はしてしまう。よく男女の友情は成立するか? というのが世間話の議題に上がることがあるが、それに対しての雨音の答えは、『半分は成立する』だ。理性的には成立するが、本能的にはどうしたって生殖相手なのである。意に反した間違いが起きてしまうこともきっとあるだろう。
「抱きつくなー。離れろ。今日はぼく美術の課題やりたいからパス。雨まだ降ってるし」
小柄なひなのの細い肩を押して、彼女の体を自分から離した。雨音の下半身には性的な反応をする器官はないが、あったらきっと反応してしまっていただろう。
床に散乱した教科書を拾い、整えながらかばんにしまう。
「そうなん? 真面目だねえ」
「そうそう、ぼくマジメダカラネ。
――おまえ、ぼくに抱きつくのいい加減やめろよ。ぼくは男なんだぞ」
「えー、でも身体は女じゃん」
「……今はね? でも男なの! 胸があたるんだよ。思春期のピュアな心を刺激するなよ」
「わかったよお」
そう言ってしょんぼりとした素振りを見せるひなのだが、きっと次に会ったときにはまた抱きついてくるだろう。彼女はいつもそうだ。雨音もこれに関しては半ば諦めている。
「雑貨屋行くなら、ミヤと行ってきたら? あいつあーいうの好きだろ」
ミヤというのは、ひなのと同じく雨音に対して気兼ねなく接してくる友達の一人で、男である。彼はもともとひなのと仲がよく、それで雨音とも仲が良くなった。彼はアクセサリー類が好きなので、ふたりで行けばいいのにと雨音が言うと、ひなのは「うーん」といって困ったような顔で首を傾げた。ちなみにひなのは、ミヤには抱きついたりなど過剰なスキンシップは取らない。
雨音の身体が男でないことに安心しているから、雨音には過剰なスキンシップをとってくるのかもしれない。
「アイツ女の子の気持ちがわからないじゃん? だから雨音に一緒に見てほしいんだけど」
「ぼくだってわからないよ」
雨音が渋面を作ると、彼女はかわいらしく頬を膨らませてこちらを睨んできた。「雨音のがわかるもん」ひなのはかわいいのである。あざといところもあり、それ故に女子同士でいろいろと面倒なことが起きたりしているようだが、男にも女にも属せない雨音にはふんわりとした情報しか入ってこないので実情はよく知らない。
「はいはい、じゃあまた今度な。バイバイ」
彼女を追い払うように手をひらひらとさせると、ひなのは笑顔でこちらに手を振り返して、それから廊下に別の友達を見つけたらしく小走りでそちらに向かっていった。
いつの間にか教室には他に誰もいなく、一人残った雨音は俯いて静かにため息をついた。




