雨音は時々不安定
窓際のレースのカーテン越しに差す柔らかい月光のほかに、深雪の部屋に明かりが通った。ドアの蝶番がきしむ音。眠ろうとして目を閉じていた深雪は、ぼんやりとした表情の雨音が部屋に入り込んできたのを見てベッドから上体を起こした。グレーのカバーが掛けられた薄手の掛け布団が深雪の肩を滑り落ちて、膝の上で止まる。
「ああ雨音、来たの……?」
「うん。眠れない」
雨音が頷いて、後ろ手で扉を閉める。室内を照らす光はレースのカーテン越しのささやかな光だけになって、雨音の姿が判然としなくなる。
薄闇の中で、ぼやけた雨音の輪郭が動く。スリッパを床に擦る音を響かせながらベッドサイドに歩み寄ってきて、ベッドの縁に膝を乗せる。月光を浴びて、雨音が手に持っている金属がぼんやりと光った。雨音の手が布団の中に滑り込んできて、深雪のパジャマのウエストゴムに手を掛けた。
「わっ、雨音、なに……!?」
急にウエストを引っ張られて、深雪は思わず雨音の胸を押した。押された雨音はベッドから降りて、床に立つ。目を細めて、深雪に微笑みかける。窓から差す柔らかい光を頬に浴びた彼は、さながら夜闇に降り立った天使のようだった。その細い右手に、包丁さえ持っていなければ。
「おまえ、ぼくになりたいんだろ?」
雨音が、囁くように、小さな声を上げた。
「雨音、包丁しまえ」
深雪の低い声。雨音は、高い声を上げて軽やかに笑った。
「ぼくがおまえをえらんでやるよ」
雨音が一歩、近づいてくる。深雪は自分の脚を覆っていた布団を剥いで、ベッドの足元に捨てる。雨音がもう一歩足をこちらに寄せて、深雪が捨てた布団を踏んだ。
「選ぶとか選ばないとか、なんなんだよ」
深雪の問いに、雨音は何も言わなかった。雨音の冷たい手が、深雪のパジャマをめくる。もう寒くない季節だというのに冷え切ったその手を掴んで、深雪は雨音の据わった目をまっすぐに見た。
「雨音、そんなことしたら、僕は死ぬぞ。それでもいいのか?」
雨音は何も言わなかった。ただ黙って、平らに据わった目を丸い形に変えて、その中で赤銅色の瞳を揺らしてから包丁を持つ手を下ろした。深雪に背を向けて、壁際に据えられた机に包丁を置く。
一拍置いてからこちらを振り向いた雨音は、何事もなかったかのような穏やかな笑みを浮かべていた。ベッドのそばまで来て足元に落ちた掛け布団を拾うと、ベッドに座ったままの深雪の膝にそれを掛けた。
雨音に手で促されるまま横たわった深雪の肩まで布団を引き上げると、雨音は、布団の中に滑り込んできた。
「深雪」
雨音が名前を呼んで、深雪の背に手を回してきた。深雪の胸に頭を押し付けて、くぐもった声を上げる。
「そろそろ髪切るだろ? いつ行くの?」
「来週くらいかな。雨音の予約も一緒に取るよ」
雨音の背中に手を回して、肉付きの薄い背中を擦る。刃傷沙汰を起こそうとしてきたのはこれが初めてだけれど、雨音は時々不安定で、それが深雪に向かうことがある。理由は知らないし特に訊いたりもしないが、深雪にはなんとなくわかる。
深雪の腕の中で、深雪の胸に頭頂部を擦りつけるようにして雨音が頷いた。深雪の身体を抱く腕に、力がこもる。
「うん。おまえ、ぼくから離れるなよ」
「僕はずっとここにいるよ」
雨音の頭に顎を載せて、深雪は目を閉じた。雨音からの返事はなかった。
ふたりともそのまましばらく黙して、布団の中がふたり分の熱をはらんで熱くなってきたころ、雨音が再び口を開く。
「ねえ深雪。ぼくが死んだら、おまえに雨音をあげるよ」
「雨音おまえ、何言ってんの……?」
深雪が気の抜けた高い声を返すと、その胸元で雨音の顔が動いた。胸に雨音の顎が刺さる。こちらを向いているようだけど、深雪からは雨音の顔は見えなかった。
「そのかわり、おまえが死んだら、ぼくに深雪をくれ」
「別にいいけど……おまえ、死ぬの?」
雨音の頭に手をやって、自分と同じ色の髪の毛をぞんざいにかき混ぜる。雨音は抵抗もせずに髪を乱す細い指先を受け入れて、深雪の平らな胸に顔をうずめた。雨音の熱い呼気が、みぞおちのあたりの皮膚をくすぐりながら温めてくる。
「死なないよ、まだね」
腕の中で、雨音が静かに笑った。
*
今日の雨音の部屋は、鍵で固く閉ざされていた。ドアノブから手を話した深雪は、静かに息を吐いて、出かける支度をした。パジャマから外着に着替えて、朝方に寒くなりそうな気がしたので薄手のカーディガンを羽織って家を出る。
今夜の月は雲に覆い隠されていて、よく見えなかった。月が見えないせいで余計に暗い夜半。家の外壁に取り付けられたライトと街灯がぼんやりとあたりを照らして、ようやく景色の輪郭を視認できる。深雪は庭に置いてあるグレーの自転車を牽いて、道に出ようとしていた。タイヤの回転に合わせてちかちかと明滅するライト。ライトの明滅は、一メートルも進まないうちに止まった。
「あま、み、深雪……?」
夏日だ。幽霊でも見たような顔をしてこちらを見ている。なぜここにいるのだろう。きっと、彼も深雪に対して同じことを思っているのだろうけど。
深雪は夏日の後ろにふたりの大人がいるのを見て、夏日がこんな夜中に帰宅する理由を理解した。夏日の亡き父が立ち上げた会社の社員だ。細かい経緯は知らないが、夏日は大学卒業後、この会社に入社することがもうすでに決まっているらしい。それで、定期的に勉強やら集まりへの参加やらをしていると言っていた。今日もその帰りなのだろう。
夏日の後ろに控えた壮齢の男性と妙齢の女性が、簡単に挨拶をしてくれた。深雪は会釈を返して、顔を上げてふたりの顔を改めて見て、そして青ざめた。深雪はこの女性を知っている。名前は知らない。いつだったかは覚えていないけれど、そう遠くない過去に、深雪と彼女は互いの素肌に触れたことがある。目が合う。逸らされた。ああ、最悪だ。
「深雪、こんな夜中にどこ行くんだ?」
夏日が怪訝な視線をこちらに寄せてくる。深雪は自転車のスタンドを下ろして、目を伏せた。
「散歩だよ」
「自転車で散歩?」
夏日が眉根を寄せる。深雪は嘘が下手な自分を呪って、首を振った。
「……嘘。コンビニ行くの。夏日も行く?」
「おー。おまえ一人だと心配だからな。変なおっさんに襲われるかも」
夏日は快活に笑って、後ろのふたりに手を振った。互いに挨拶をして、ふたりは踵を返して駅の方へと歩いていく。ふたりの背中に頭を下げた深雪は顔を上げて、夏日に向き直る。
「僕は男だ」
「でもおまえみたいな男がいい変態もいるだろ、今の世の中」
そういって笑った夏日は、こちらを見る深雪の視線が冷たいことに気が付くと表情を殺して姿勢を正した。「悪い」小さい声で謝ってから、何事もなかったかのように話題を振ってくる。
「コンビニ行って何買うのー?」
「うーん。シュークリーム」
歩き始めた夏日について歩く。夏日がぐにゃぐにゃと頭を揺らした。
「おれチキン食いてーなー」
「あっいいな。僕も」
「両方食うの? 太るぜー?」
「僕はもうちょっと太った方がいいんでしょ?」
「まあおまえ、すぐ折れそうで怖いしな」
「あはは」
春先に降る雨のように肌当たりの柔らかい音を立てて、深雪は高らかに笑った。いままでささくれていた心が、この一瞬で満たされて、潤う。深雪にとって恋とは残酷な物であるけれど、同時に幸福な物でもある。夏日は雨音が好きなのだ。彼が自分を見てくれることなど、奇跡が起きない限り一生ない。けれど深雪は、この一瞬の幸福のために、こちらを見ない夏日を思い続ける。




