雨音の愛は重い
誰からも求められていないような気がした夜は、雨音のベッドに潜り込む。しかし、雨音は部屋に鍵をかけている時がある。ひとりで眠りたい時の、雨音のサイン。雨音に拒否された日には深雪は家を出て、他人の家の布団で眠る。
少し眠って夜が白み始めた頃に家に帰ると、いつもは出かけるぎりぎりまで眠っている雨音が大抵起きていて、甘いチョコレートを一欠片溶かしたミルクコーヒーを淹れて待っている。雨音は深雪の外泊について、何も訊かない。ただ、深雪の寝不足を案じて小言をぶつけてくるだけ。
「……ただいま」
深雪は羽織っていた薄手のカーディガンを椅子にかけて、その椅子に腰を下ろした。雨音が、手元に置いてあった二つのカップのうちの一つをこちらに差し出す。ぬるくなったミルクコーヒー。一口すすると、甘い。ほのかに香るチョコレートの匂い。凍りついた心が緩むような気がして、深雪はゆっくりと息を吐いた。
「おかえり。おまえ、授業中寝るなよ」
「……うん」
雨音の小言。深雪は俯いて、頷く。
「おまえのせいでぼくも寝不足だ」
「……ごめん」
「いいよ。ぼくは昨日ひとりで寝たかったんだ」
はー。と息を吐いて、それから、雨音は目を細めた。
「たまには朝ごはん食べない? ホットケーキ焼いてよ」
「僕が作るの?」
そう言いながら、深雪は席を立つ。
深雪お手製のふわふわホットケーキが出来上がる頃には、雨音はテーブルに突っ伏して眠っていた。
雨音の頭から離れたところにホットケーキとコーヒー牛乳を置いて、深雪は自分の分を食べる。深雪が半分ほど食べ進めたところで雨音が目覚めて、起こしてくれなかったことに対して文句を言われながらふたりでホットケーキを食べて、それから、学校に向かって家を出た。
*
部活を終えた深雪が家に帰ると、雨音がテーブルについていた。テーブルの上にあるのは、ひき肉で作られた肉だね。深雪には見慣れた、いつもの光景だ。雨音のひき肉料理好きは相変わらずで、週に二度の雨音が料理を作る日は必ずと言っていいほどの頻度でひき肉をこねている。この間は珍しく普通のみそ汁と焼き魚を作っていて思わず雨音の正気を伺ったところ、怒られた。今日は平常運転のようだ。
「ただいま」
玄関に背を向けて座っている雨音の後ろから、テーブルを覗き込むようにして声を掛ける。彼はこちらを見もせずに、「おかえり」短くそう言って、自分の左手側に置かれた餃子の皮を手に取った。皮に肉だねを乗せて、器用な手つきで肉まんのような形に成形していく。
手を洗って、スプーンとステンレス製のバットを持って深雪は雨音の対面に腰をおろす。雨音はこちらにちらりと一瞥くれてから、二つある肉だねの入ったボウルの一つを、深雪の方へと押しやる。深雪は何も言わずに餃子を包み始めた。しばらくふたりで作業して、餃子の皮が残り数枚になったところで、雨音が口を開く。
「深雪。あいつマジで、どうにかなんないの?」
「あいつ? 夏日?」
「そう。しつこいんだよ、あいつ。ぼくのこと好きなんだってさ。ぼくはあいつが嫌いだ」
雨音は、吐き捨てるように言った。それから、
「おまえ、あいつが好きなんだろ? あんなののどこがいいの?」
雨音が平然と放った言葉の数々に頭を殴られて、深雪は目を見開いた。
「え、なんで」「見てればわかるよ。おまえはぼくなんだ」
雨音のブランデー色の瞳に見つめられて、深雪は目を泳がせた。
「……僕が」
深雪が口を開く。手にしていた包みかけの餃子をトレーの上に置く。急に乾いた喉を上下させて、言葉を続ける。
「恋愛対象が人と違うの、おまえは知ってるよな」
雨音は何も言わずに、首肯した。
「それで、悩んでた時に、夏日が、理由も聞かずに慰めてくれて……」
うつむく。一度も口にしたことのない言葉が、深雪の薄い唇を割って零れる。懺悔するように低く小さな深雪の声が、テーブルの上を這って雨音の元へと届く。
「好きだって思ったのはその時だけど、でも、その前からきっと、好きだったよ」
「ふーん」
訊いてきた割に興味なさげに吐息を返して、雨音が餃子の皮を手に取った。肉だねを乗せる。雨音の目が、シーリングライトの光を受けて光る。
「ぼくと夏日、どっちが好き?」
「は? なにそれ。どっちも同じくらい好きだよ。それに、おまえと夏日とじゃ、好きの意味が違うだろ」
もごもごと口の中で答えて、深雪は包みかけの餃子を手に取った。慣れた手つきで均等なひだを作っていく。
「じゃあ、どっちが大事?」
さらに詰めてきた雨音に、首を振って返す。
「わからないよ、そんなの。考えたこともない」
「ぼくは深雪のが大事だよ」
軽薄な笑顔を浮かべる雨音。深雪は彼に平らな目つきを返して、手元の作業に視線を戻した。
「夏日より? ありがとう。夏日のことももう少し大事にしてやれよ」
新しい餃子の皮を手に取った深雪の、その手を雨音が掴んで止める。彼の方を見ると、自分と同じ色の瞳がこちらを鋭く射抜いていた。雨音の細められた目の奥で、彼の口から放たれる言葉とは違う色が瞬いている。
「違うよ。この世の誰よりも、おまえが大事だよ。ぼくの大好きな、ヒカリさんよりも、ユリネさんよりも」
「急に何? 重いよ。ていうか怖い」
深雪は眉間にしわを寄せて、雨音に怪訝な視線を送る。いやに強く掴んでくる雨音の手をほどくと、雨音はいつもの調子で軽い音をたてて笑う。
「知ってるだろ。ぼくの愛は重いんだよ。おまえがぼくと夏日を選べなくても、ぼくはおまえを選ぶよ」
深雪の顔に向けて差し向けてきた打ち粉と肉だねのついた白い手をのけぞって躱すと、雨音はつまらなさそうに唇を尖らせた。
「僕は……」
深雪は開きかけた口を閉じて、目を伏せた。耳にかけた髪が降りてきて、深雪の頬を撫でる。
「僕はやっぱり、どっちも選べないよ」
「深雪くんは優柔不断だねえ」
深雪の心を笑うように、雨音が冗談めかして言う。それに平坦な視線を返して、それから深雪はまたうつむいた。
「うるさいな……僕がおまえがうらやましいよ」
ぽつりとこぼした、深雪の本音。どれだけ深雪が夏日を想っても、夏日の眼の中にいるのは、いつだって雨音ただひとり。身体のかたちにこそ違いはあれど、ほとんど同じに生まれて、ほとんど同じに生きてきた。それなのに夏日が雨音を選んだのは、きっとほんの少しの差のせいなのだ。例えば身体の性別とか、多少の気の強さとか、そのくらいのこと。けれどそのほんの小さな差は、深雪にとっては絶望的に高く厚い壁だった。
「なんで? 夏日がぼくにメロメロだから?」
「おまえ、たまに性格悪いよね。そういうところはうらやましくないな」
眉をひそめて、首を振る。深雪の視界の中で、一足先に手元の肉だねを包み終わった雨音が席を立つ。残った餃子の皮を深雪の方へ寄せて、空になったボウルと包み終わった餃子の乗ったトレーを手に持った。アイランドキッチンの方へと歩きながら、
「おまえ、ぼくになりたいの? おまえならぼくになれるよ。でも、ぼくはおまえにはなれない」
いつになく弱い声でいうものだから、手元にまだ肉だねが結構な量残っていることに焦って餃子を包む速度をあげ始めた深雪は一瞬聞き逃して、間抜けな顔で雨音を見た。一拍置いてから雨音の言葉を脳が吸収して、それでも彼の言っている意味が分からなくて首をかしげる。深雪が意味を問う前に、雨音が再び口を開いた。
「だからぼくは、おまえを恨んでるよ」
「なんで? この世の誰よりも大事なんじゃないの?」
「うーん。愛憎ってやつ?」
そう言って雨音は、いつもの調子でからからと笑った。




