聞きたくなかった言葉
深雪の目の前で、夏日が今朝脱いだのであろう服をベッドの上から床に投げ捨てている。夏日の部屋は相変わらず少し散らかっていて、夏日の匂いと整髪料の匂いが混ざった香りがする。夏日が自分の部屋に来るのはまた別なのだけど、深雪が夏日の部屋にいるのはなんだかとても罪深いことのような気がして、深雪にとっては居心地が悪い。
夏日に促されて、ベッドに腰を下ろす。柔らかいマットレスが立てる軋んだ音が、深雪の小さな心臓を責める。
心臓の拍動に合わせて狭くなる深雪の視界の中で、夏日が床に捨てた服を足で端に寄せている。服を散らかすところや部屋の真ん中に置かれたテーブルにペンとノートが散らかっているところとか、こういう微妙にだらしないところが、雨音と夏日はよく似ている。
夏日がベッドサイドに机を寄せてきた。ペンが一本、転がって床に落ちる。夏日はそれを手にとって、机に戻す。壁際に寄せて置かれていた黒い生地のスクールバッグを取り、ペンケースを出す。机の上に散らかっていたペンを片っ端からペンケースに投げ入れていく。普段の雑そうな立ち居振る舞いの割にきれいな字がぎっちりと詰まったノートを閉じる。ペンケースと一緒に、スクールバッグにしまって壁際に戻す。
深雪は黙って夏日の片付けを見ていた。
机をきれいにした夏日が、こちらを見る。目が合うと、逸らされた。
「雨音、足元悪い」
そう言って、夏日が深雪の足元に顔を近づけてきた。深雪は体を畳むようにして足を上げる。深雪の足の裏に夏日の毛先が触れて、体が硬直する。硬くなった体でそっと足を吊り上げる。
深雪のちょうど足元のベッド下収納の引き出しを空けて、夏日はそこからワイシャツを取り出した。引き出しを閉める。深雪は吊り上げていた足を下ろして、つま先を床に落ち着けた。
きれいになったテーブルにワイシャツを置く夏日。ワイシャツと一緒にしまってあったのだろうか。いつの間にか持っていた小さな裁縫セットと、ジッパー袋に入ったボタンもテーブルに置いた。
無言で夏日がこちらを見た。深雪は夏日からふいと顔をそらして、壁際にある漫画がずらりと並んだ本棚を視界に入れた。
「家庭科でボタン付け習ったでしょ? 思い出しながらとりあえずやりなよ。おかしいことしたら言うから」
「おー」
そう言って自己流のボタン付けを始めた夏日の手付きはおぼつかなくて、深雪はそわそわしながら彼のミスを指摘する。
「そっちから針刺すなよ」「そんなに何回も糸通さなくていいよ」「巻きすぎ、巻きすぎ」
三回くらいやり直して、ようやくボタンがつけ終わった。
「できたーサンキュー」
ボタンをつけ終わったワイシャツをスクールバッグの上に投げおいて、夏日がくしゃっと破顔した。深雪は彼の、この無垢な笑顔が好きだ。心臓が跳ねる。目が合った。夏日の笑顔が、消える。
「……雨音」
深雪の心臓が、跳ねた。そうだ。今の自分は、雨音なのだ。夏日の危なっかしい手付きを真剣に指導するうちに、忘れてしまっていた。いつもなら、深雪の素が出たら夏日もすぐに気がつくのに。
「なあ雨音。おれはおまえが好きだよ」
落雷に貫かれたみたいに、深雪の頭の中は真っ白になった。
「おまえが男だったとしても、おれはいい。おまえがおれのこと好きじゃなくてもいいから」
沈黙する深雪。喉元で言葉が絡まって、いや、それよりも、もっと手前のところで思考がぐちゃぐちゃに絡まってこんがらがって、言葉が出ない。自分が呼吸できているかどうかもよくわからなくなって、めまいがする。自分の黒目と一緒にふわふわと揺らぐ視界の中で、夏日の頭がこちらに近づいてきた。大きな手が肩に載せられる。彼の手の重みを感じる肩が熱い。
「おれのこと、好きに利用していい。だからおれと、ずっと一緒にいてほしい」
夏日の顔が、もやがかったようによく見えない。五感と脳の回路が切れたみたいに、脳が一切の情報を受け入れようとしてくれない。夏日はいまどんな顔をしている? 夏日はいま誰を好きだと言った?
「……」
無言の深雪。夏日は眉間を寄せて、深雪に顔を近づけた。
「……雨音?」
自分より高い位置にある頭を下げてこちらを覗き込んでくる彼。彼の不安げな声にはっとした深雪は、首を横に振った。心臓が四散しそうなくらい飛び跳ねている。彼の熱い肩をそっと押して、
「夏日ごめん。よく見て。僕は雨音じゃない」
「ウソだろ……?」
「嘘じゃない。おまえならわかるだろ。おまえさっき、僕を雨音と間違えて、だから僕、からかってやろうと思って。――騙した僕が悪いけど、でも、おまえ、いつもならすぐにわかるだろ……なのになんで、今日に限って……」
説明しながら、深雪はなんだか死んでしまいたいような気持ちになってしどろもどろし始めて、しまいに言葉をつまらせた。
夏日はしばらくいっぱいに開いた目の中で焦げた色の瞳をゆらゆらとさせていたが、おもむろに大きなまばたきをすると深雪の細い両肩を掴んで揺らした。
「あー、はっずかし! 言うなら今日しかないと思って焦ったわ! そんで見分けつかんかったんだな! 忘れてくれ深雪!」
夏日はそう言って、赤いんだか青いんだかよくわからない顔色をしながら大げさに笑った。
夏日が本物の雨音に告白をしたのは、その次の日のことだった。




