選択ミス
深雪にとって、雨音はただ一人の血の繋がった家族である。世間一般では母親も父親も血の繋がった家族ではあるが、深雪にとっては家族と呼ぶには関わりがあまりにも薄いのだ。深雪にとっての両親は、家族の括りには入らない、ただ血が繋がっているだけの他人だ。深雪が家族だと思っているのは、雨音と、夏日の母親であるユリネと、ユリネの亡き夫だけだ。その家族の中でただ一人、血が繋がっていて同じ容姿を持つ雨音は深雪にとっては何よりも特別で、自分の存在よりも大切で、何よりも、羨んでやまない相手。雨音もきっと、深雪に対して同じ気持ちを持っている。
そんな深雪の大切な家族――雨音に睨まれて、深雪は一歩、後ずさる。
「深雪」
雨音が低い声で名前を呼んだ。深雪はもう一歩後退しようとして、背後にあったシンクに腰をぶつける。
「なに、雨音……」
雨音がこれほどまでの剣幕で迫ってくるような心当たりは、深雪にはない。これからバイトに出かける雨音にスープでも作ろうかと思って、帰宅してすぐにきのこをほぐしていただけだ。今朝の雨音は今日は遅刻ぎりぎりに起きたようで、余裕を持って家を出る深雪とは顔を合わせなかった。学校ではクラスも違うし、合同の授業なんかもなかった。今日は朝から今まで、顔も合わせていないのだ。いきなり迫られる心当たりなんか、深雪には微塵もない。
雨音が、深雪に顔を近づける。息がかかる距離に自分と同じ顔が来て、逃げ場を詰められた深雪は上体をのけぞらせて雨音の顔から離れた。
「深雪、なんで、ぼくのハンバーグ食べたの!?」
――ハンバーグを? 食べた? 今まで雨音に詰められている理由を探して騒がしくしていた深雪の脳内が、雪の日の朝のように静かになった。言っている意味がわからない。いや、意味はわかるのだけど、それだけの理由でこれほどまでに怒る意味がわからない。
雨音の言う通り、今朝の深雪は確かに丸い形のハンバーグを食べた。ハート形のハンバーグは冷蔵庫の奥の方にあって、取るのが面倒だったから手前にあった丸いほうを食べた。いつもは朝食を食べないけれど、今朝は無性にお腹が空いていたのだ。ただそれだけのことで、なぜこんな剣幕で詰められなければならないのだろうか。
「どっちのとかないだろ」
真っ白な頭で言葉を紡ぐ。雨音は眉間にしわを寄せて、後ろ手で乱暴に冷蔵庫を指差す。
「残りは全部おまえが食えよ。ぼくはもう食わないからな」
吐き捨てるように言って、怒っている理由も言わずに雨音は二階へ続く螺旋階段を登っていった。
小柄な雨音が立てる重たい足音を聞きながら、深雪は深く、ため息をつく。
深雪がせっかく作ったスープも食べずに、雨音はさっさとでかけて行ってしまった。
広い家にひとり残された深雪は、ひとりで寂しくスープとハンバーグを食べた。しっかりと残ってしまった、きのこがたっぷり入った酸っぱい
スープ。深雪と雨音の大好物。深く息を吐いて、深雪はスープの入った小鍋に蓋をした。
片付けをして自室に戻ろうと二階へ続く螺旋階段を登る。廊下へ降りたところで、自分の部屋の奥にある雨音の部屋の扉が開きっぱなしになっていることに気がついた。開きっぱなしでも別にいいのだけど、なんとなく、閉めてやろうと思った。雨音の部屋に近づく。
雨音の部屋の中は、窓から差す夕日で朱く灼かれていた。壁際に置かれたベッドの上には海色のグラデーションが掛かった掛け布団がぞんざいに置かれていて、床には雨音が脱いだ部屋着が落ちている。勝手に片付けても普段は何も言わないが、あの態度の後だ。余計なことをしたら逆鱗に触れるかもしれない。深雪は見なかったことにした。
全開のカーテンを閉めようと、深雪は雨音の部屋に足を入れる。木製の勉強机の上には、昨日まで深雪の部屋にあったはずの本と、麦茶が半分入っているグラス。深雪はこれも、見なかったことにした。
窓のそばまで歩み寄り、窓の左右にぞんざいに避けられていた群青色のカーテンをかき分けて、その奥にあるレースのカーテンを掴む。閉めようとして、窓の向こうの景色が見えた深雪はその手を止めた。雨音の部屋からは、夏日の部屋がよく見える。夏日の部屋も、雨音と同じくカーテンが全開になっている。しかも、その向こうで夏日がぶんぶんと両手を振りながらこちらを見ていた。
深雪の眼前、十メートルほど離れたところで、夏日の口が動く。『あ』『ま』『ね』手の甲をこちらに向けて、仰ぐような仕草をする。こっちに来いと言っているようだ。この瞬間、深雪は魔が差した。深雪はきっと、このことを一生後悔するだろう。
深雪は雨音のふりをして、眉間にしわを寄せた。数秒の間を置いて、首を斜めに傾けるようにして頷いた。窓越しに、夏日の笑顔が輝いた。
カーテンを閉めて部屋を出る。階段を降りながら、緩めたまま着けっぱなしだったネクタイを外す。雨音は普段、ネクタイを着けていないのだ。どこもかしこも健康そうな夏日はあれで結構目が悪いので、深雪が今、ネクタイをしていたことに気が付かなかったのかもしれない。
えんじ色のチェック柄のネクタイをテーブルに適当に投げ置いて、靴を履いて玄関を出る。夏日の家の方へつま先を向けると、玄関の外に夏日が立っているのが見えた。彼の元まで歩み寄って、
「急になに?」
彼に平らな視線を向ける。視界の中の夏日は頭を掻いた。
「深雪は?」
「買い物じゃない? まだ帰って来てないよ。ユリネさんは?」
「まだ仕事」
答えてから、夏日は夕日に染まって鈍い色に光る目を泳がせた。言葉を次ぐ。
「なー雨音、ボタンつけ教えてくんねぇ?」
「深雪に言えよ。あいつに教えてもらうんだろ」
突き放す。いつもだったらこれで肩を落として引っ込むのだけれど、今日の夏日は違った。束の間肩を揺らしてから、こちらに片足分近づいてきた。
「忘れてたんだよ。思い出した時にやらねーとまた忘れるだろ」
「嫌だよ、めんどくさい。自分で調べてやれよ」
さらに突き放す。しかし夏日の意思は砕けず、食い下がってくる。情けなく両の眉尻を下げて、捨てられた犬みたいな儚げな視線をこちらに向けてきた。
「なあ、ホントにダメ? おれ、おまえに教えて欲しいんだけど」
「…………」
夏日のかわいらしい視線に圧されて、口ごもる。深雪には、雨音に対して望みのない片思いをする夏日の気持ちが痛いほどによくわかるのだ。幸か不幸か、彼はまだ深雪のことを雨音だと思いこんでいる。夏日と“雨音”をふたりきりになんかさせたくないけれど、それでも、たまには少しでも彼の気持ちが報われて欲しいとも思った。そうでなければ、不毛な片思いを続ける自分にだって希望がないような気がした。希望なんてもとよりないはずなのだけれど。
「いいよ。でも今回だけね。次は深雪に頼めよ」
夏日の表情が光り輝く。そうして深雪は、本日二度目の選択ミスをした。




