9話
それから、さらに時間が過ぎた。
夏休みが近づいていた。
教室の窓から入ってくる風は、もうすっかり暑い。
「暑い……」
篠宮朔が机に突っ伏していた。
「まだ六月だぞ」
「六月だから暑いんだよ」
「意味分からない」
そんなくだらない会話を聞きながら、俺は窓の外を見ていた。
最近、体調が悪い。
以前よりも明らかに疲れやすくなった。
階段を上るだけで息が切れる。
朝、起きるのが辛い。
そして、血を吐くことも増えた。
それでも学校には来ていた。
冬月澪がいるから。
……いや。
別に、澪のためではない。
学校に来る理由があるだけだ。
そう思っていた。
「九條くん」
隣から声がした。
「ん?」
「今日も、帰りに……」
澪はそこで一度言葉を止めた。
「……家に行ってもいいですか?」
「いいよ」
俺は即答した。
澪は少しだけ嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て俺も少しだけ笑った。
放課後。
いつものように、俺たちは二人で歩いていた。
最近は、澪が俺の家に来ることが当たり前になっている。
最初は少しだけと言っていた。
でも、最近は。
「今日、泊まってもいいですか?」
と聞かれることもあった。
もちろん、泊めたことはない。
澪の家にも連絡が行くし、さすがに問題がある。
ただ俺の家に来ること自体は、もう珍しくなかった。
「……九條くん」
「ん?」
「私、迷惑ではありませんか?」
「何が?」
「こうやって、毎日のように来て」
「別に」
「本当に?」
「本当」
「……」
澪は少し黙った。
「九條くんは、いつもそう言いますね」
「何が?」
「大丈夫とか、別にとか」
「便利だから」
「便利……」
澪は少しだけ笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えた。
「……私、九條くんのところに来すぎですよね」
「そうかな」
「はい」
「じゃあ、来なきゃいいんじゃない?」
冗談のつもりだった。
軽く言っただけだった。
けれど澪の足が止まった。
「……」
「冬月?」
「……そうですね」
澪は俯いた。
「そうした方がいいのかもしれません」
「え?」
「迷惑ですものね」
「いや、そういう意味じゃ」
「大丈夫です」
澪は笑った。
その笑顔を見て俺は、嫌な予感がした。
「冬月」
「大丈夫ですから」
また、その言葉だった。
俺が何度も使っていた言葉。
澪は俺に背を向けて歩き始めた。
「ちょっと待って」
「……」
「冬月」
俺は追いかけようとした。
その瞬間。
「……っ」
胸に痛みが走った。
視界が揺れる。
俺は壁に手をついた。
「九條くん?」
澪が振り返った。
俺はすぐに姿勢を戻す。
「大丈夫」
「……」
澪は、じっと俺を見ていた。
「今、苦しそうでした」
「ちょっと躓いただけ」
「嘘です」
「……」
「九條くんは、嘘が下手です」
澪はゆっくりと近づいてきた。
「私には、言ってください」
「何を?」
「苦しいなら、苦しいと言ってください」
俺は黙った。
澪は俺の前に立つ。
「私が迷惑なら、そう言ってください」
「迷惑じゃない」
「……本当に?」
「ああ」
「では、どうしてあんなことを言ったんですか?」
「……冗談」
「冗談でも、嫌です」
澪の声が少し震えていた。
「私が来ない方がいいなら、そう言ってください」
「だから、そういう意味じゃない」
「では……」
澪は俺の服の袖を掴んだ。
「私は、来てもいいんですか?」
「……」
「九條くんの家に」
「うん」
「明日も?」
「うん」
「明後日も?」
「……うん」
「その次も?」
俺は少しだけ笑った。
「好きにすれば」
澪は、ようやく少しだけ安心したように息を吐いた。
「……はい」
その手は、しばらく俺の袖を掴んだままだった。
家に着くと澪はいつものようにソファに座った。
俺は冷蔵庫から飲み物を出す。
「はい」
「ありがとうございます」
澪はペットボトルを受け取った。
そしてしばらくすると。
「……」
眠っていた。
俺は机に座り、課題をしていた。
ふと、後ろを見る。
澪は眠っている。
いつもと同じ。
でも今日は、少し違った。
澪は寝ながら。
「……九條くん」
と呟いた。
「ん?」
俺は振り返る。
もちろん、寝言だ。
「……ここに……」
澪は小さく眉を寄せた。
「……いて……」
俺は、しばらく動けなかった。
そして胸の奥が、酷く痛んだ。
病気の痛みとは違う。
もっと、嫌な痛みだった。
「……いるよ」
聞こえているはずがない。
それでも、俺は答えた。
「ここにいる」
澪は少しだけ表情を緩めた。
俺はその寝顔を見つめた。
俺が死んだらこの子はどうするのだろう。
この部屋に来ることもできない。
俺の隣で眠ることもできない。
俺にここにいてと言うこともできない。
そんなことを考えて俺は、初めて少しだけ怖くなった。
――俺が死んだ後。
澪は、どこに行くのだろう。
その時、スマホが震えた。
病院からの通知だった。
次回の診察日。
俺は画面を見つめる。
そしてもう一度、澪を見る。
「……」
俺は、いつまでここにいられるのだろう。
医者から言われた一年という時間。
それが、どんどん短くなっている。
でも澪は何も知らない。
俺がいなくなることも。
俺が毎日、薬を飲んでいることも。
血を吐いていることも全部。
俺は隠している。
「……冬月」
眠っている澪に向かって、俺は呟いた。
「俺がいなくなったら……」
そこまで言って、口を閉じた。
言えるわけがない。
そんなこと考えたくもない。
俺は、澪の頭にそっと手を置いた。
そして。
「……もう少しだけ、ここにいてやるよ」
そう呟いた。
その言葉は自分自身に向けたものだった。
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