6話
九條くんの家に行く。
そう決めたはずなのに学校を出てから、冬月澪はずっと黙っていた。
「……」
「……」
隣を歩いている。
距離は近いでも、会話はない。
俺はちらりと彼女を見る。
いつもの冬月澪なら、もう少し何か話す。
今日の授業がどうだったとか。
明日の課題がどうだとか。
でも今日は、ずっと俺の隣を歩いているだけだった。
「冬月」
「はい」
「本当に来る?」
「……はい」
「無理しなくてもいいけど」
「無理はしていません」
澪はそう言った。
でも、声が少し硬かった。
「そう」
俺はそれ以上聞かなかった。
しばらく歩く、やがて、俺の住んでいるマンションが見えてきた。
普通のマンションだ。
特別広いわけでもない。
家族と暮らしているわけでもない。
俺は一人で暮らしていた。
病気のこともあり、両親は近くに住んでいる。
何かあればすぐ来られる距離だ。
ただ俺は一人でいることが多かった。
「ここです」
「……」
澪はマンションを見上げた。
「どうかした?」
「いえ」
少しだけ緊張しているようだった。
「男の家に入るの、嫌なら帰ってもいいから」
「……嫌ではありません」
「そう」
俺は鍵を開けた。
部屋の中は、特に面白いものはない。
机、ベッド、本棚、テレビ。
必要最低限の家具。
「……お邪魔します」
「どうぞ」
澪は玄関で靴を脱いだ。
その動きが、妙に丁寧だった。
俺は気にせず部屋へ向かう。
「適当に座って」
「はい」
澪はソファに座った。
俺は冷蔵庫を開ける。
「何か飲む?」
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくていいけど」
「本当に大丈夫です」
「そう」
俺は自分の分だけ水を取り出した。
薬を飲む時間だった。
ポケットから薬を出す。
澪の視線が、薬に向いた。
「……」
「何?」
「いえ」
「?」
「その薬は……」
「持病」
俺は簡単に答えた。
「そうですか」
「うん」
澪はそれ以上聞かなかった。
でもその顔には、明らかに心配が浮かんでいた。
「そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫だよ」
「……大丈夫なんですか?」
「まあ」
また大丈夫と言った。
澪は少しだけ眉を下げた。
「九條くんは、すぐに大丈夫と言いますね」
「癖かな」
「……そうですか」
澪は俯いた。
俺はソファの反対側に座る。
テレビをつける。
特に興味のない番組が流れる。
しばらく、二人で画面を見ていた。
会話はなかったでも、不思議と気まずくはなかった。
「……九條くん」
「ん?」
「ここは……静かですね」
「そう?」
「はい」
澪は部屋を見回した。
「家にいると、いつも何か言われるんです」
「……」
「勉強しなさいとか。もっと頑張りなさいとか」
澪は膝の上で手を握った。
「何をしても、まだ足りないって言われます」
「そっか」
「だから、家に帰るのが少し嫌です」
「……」
「でも」
澪は、ゆっくりと部屋を見た。
「ここは、何も言われないので」
俺は何も言わなかった。
ただ、テレビを見ていた。
少しして。
「……九條くん」
「ん?」
「ここにいてもいいですか?」
俺は澪を見る。
彼女は、こちらを見ていなかった。
「別に」
「……」
「帰りたくなったら帰ればいいし」
「……はい」
澪は小さく頷いた。
それから彼女は少しずつ力を抜いていった。
肩の力が抜ける、背もたれに身体を預ける。
そして気づけば、眠っていた。
「……寝たか」
俺は時計を見る。
もう夜の七時を過ぎている。
起こそうか迷った。
でも澪の寝顔は、学校で見るものとはまるで違った。
完璧な美少女ではない。
ただの、疲れた女の子だった。
「……」
俺は立ち上がり、毛布を持ってくる。
それを澪にかけた。
その瞬間。
「……っ」
澪の手が、俺の服の裾を掴んだ。
「……」
寝ている。たぶん。
俺は少し困った。
起こすべきかでも、手を離そうとすると。
「……や……」
澪が小さく呟いた。
「……いかないで……」
俺は動きを止めた。
寝言だった、そう思いたい。
俺は、もう一度ソファに座った。
澪の手は、俺の服を掴んだままだった。
しばらくすると澪が目を覚ました。
「……あれ?」
「起きた?」
「……寝ていましたか?」
「うん」
「すみません」
「別に」
澪は慌てて手を離そうとした。
そこで。
「……」
自分が俺の服を掴んでいたことに気づいた。
顔が赤くなる。
「これは……」
「寝ぼけてたんじゃない?」
「……そうですね」
澪は俯いた。
そのまま、少し黙る。
「……九條くん」
「ん?」
「また、来てもいいですか?」
その質問に俺は少しだけ考えた。
普通なら断るべきなのかもしれない。
でも。
「別に」
そう答えていた。
澪の顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
「……ありがとうございます」
その夜。澪は帰っていった。
玄関で靴を履く。
「今日は、ありがとうございました」
「別に」
「……はい」
澪はドアの前で立ち止まった。
「九條くん」
「ん?」
「明日も……」
澪は言いかけて、やめた。
「いえ。おやすみなさい」
「おやすみ」
ドアが閉まる。
俺はその場に立っていた。
「……」
胸の奥が痛んだ。
「……っ」
俺は口元を押さえる。
しばらくして手のひらに赤いものが落ちた。
「……またか」
俺は洗面所へ向かった。
水を流す、赤い色が消えていく。
そしてその頃。
家へ帰った澪は、自分の部屋のベッドに座っていた。
今日、九條の家で過ごした時間を思い出す。
何も言われなかった。
何も求められなかった。
ただ、隣にいても許された。
「……」
澪はスマホを手に取った。
九條蓮司とのトーク画面を開く。
しばらく迷った後。
『今日はありがとうございました』
送信する。
すぐに返信が来た。
『こちらこそ』
澪は画面を見つめた。
それだけの短い返事なのに胸の奥が少しだけ温かくなる。
そして。
『また、行ってもいいですか?』
送信。
しばらくして。
『いいよ』
その一言を見た瞬間。
澪は、初めて自分から誰かのところへ帰りたいと思った。
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