5話
その日は、朝から少しだけ様子がおかしかった。
冬月澪が。
「……」
朝のホームルームが始まっても、彼女はずっと窓の外を見ていた。
いつもなら、誰かに話しかけられれば微笑む。
先生に当てられれば、落ち着いた声で答える。
けれど今日は、どこか上の空だった。
「冬月?」
「……はい?」
「いや、先生が呼んでる」
「あ……すみません」
澪は立ち上がり、問題に答えた。
正解だったけれど、席に戻った後も表情は暗い。
俺は少しだけ彼女を見た。
何かあったのだろうか。
そう思った。
でも、聞かなかった。
俺は、他人に深く関わるつもりはない。
そう決めていた。
昼休み。
いつものように、澪が俺の席へやって来た。
「九條くん」
「ん?」
「……一緒に食べてもいいですか?」
「いつもそうしてるだろ」
「そうでしたね」
澪は微笑んだ。
でも、いつもの笑顔より少しだけ弱かった。
俺たちは、教室の隅で昼食を食べた。
俺はコンビニのおにぎり一つ。
澪は手作りの弁当。
「九條くん」
「ん?」
「それだけですか?」
「うん」
「またですか?」
「……またって」
「最近、ずっと少ないです」
澪は少しだけ眉を下げた。
「ちゃんと食べてください」
「努力する」
「努力ではなくて」
「はいはい」
俺はおにぎりを食べる。
澪はそれを見て、少し安心したようだった。
その時。
「冬月」
声をかけてきたのは、水篠結菜だった。
「ちょっといい?」
「はい」
結菜は澪を少し離れた場所へ連れて行った。
俺は気にしないことにした。
でも数分後、戻ってきた澪の顔は、明らかに変わっていた。
「……」
さっきまでより、さらに顔色が悪い。
「冬月?」
「はい」
「何かあった?」
「何もありません」
即答だった。
でも嘘だ。
それくらいは分かった。
「そう」
俺はそれ以上聞かなかった。
放課後。
俺は教室を出た。
冬月はまだ席に座っていた。
誰もいない教室。
彼女はスマホを握りしめている。
画面を見つめたまま、動かない。
「……」
俺は一度、通り過ぎようとした。
関わらない、そう思った。
けれど。
「……冬月」
結局、声をかけてしまった。
澪が顔を上げる。
「九條くん……」
「帰らないのか?」
「……はい」
その声が、あまりにも弱かった。
「何かあった?」
「……」
「言いたくないなら、言わなくていいけど」
澪はスマホを握りしめた。
しばらく黙った後。
「……今日」
「うん」
「家に帰りたくないんです」
俺は黙った。
理由は聞かなかった。
ただ、澪の顔を見た。
「……そう」
「はい」
「じゃあ、少し歩く?」
「え?」
「帰りたくないなら、すぐ帰らなくてもいいだろ」
澪は、少しだけ目を見開いた。
「……いいんですか?」
「別に」
俺たちは学校を出た。
特に目的地はなかった。
ただ、駅とは反対方向に歩いた。
しばらくして。
「……九條くん」
「ん?」
「どうして、何も聞かないんですか?」
「聞いてほしい?」
「……分かりません」
「じゃあ聞かない」
澪は少し黙った。
そして。
「……今日、母から連絡が来ました」
「うん」
「次のテストで学年一位を取れなかったら、塾を増やすって」
「……」
「それだけなら、まだいいんです」
澪は歩きながら話した。
「でも、今日……言われました」
「何を?」
「……あなたは、何をしても中途半端ねって」
声が、少しだけ震えた。
「勉強もできる。運動もできる。友達もいる。見た目も悪くない」
「……」
「でも、全部一番じゃない」
澪は笑った。
でも、笑えていなかった。
「だから、もっと頑張りなさいって」
俺は何も言わなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
親を否定するのも違う。
簡単に気にするなと言うのも違う。
だから。
「……疲れるな」
それだけ言った。
澪がこちらを見る。
「え?」
「それは疲れるだろ」
俺は前を向いたまま言った。
「ずっと一番でいろって言われてるようなもんだろ」
「……」
「そりゃ疲れる」
澪は黙った。
しばらくして。
「……九條くん」
「ん?」
「もう少しだけ、一緒にいてもいいですか?」
「別に」
「……ありがとうございます」
それから俺たちは、しばらく歩いた。
公園のベンチに座る。
澪は何も話さなかった。
俺も何も話さなかった。
ただ隣に座っていた。
それだけだった。
その日から澪は少しずつ、俺のところへ来るようになった。
「九條くん」
「ん?」
「今日、一緒に帰ってもいいですか?」
「いいけど」
「……ありがとうございます」
次の日。
「九條くん」
「どうした?」
「少しだけ、話をしてもいいですか?」
「別に」
さらに次の日。
「九條くん」
「今度は何?」
「……いえ」
ただ、俺の席の隣に立っている。
「何?」
「……少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「好きにすれば」
澪は俺の隣の席に座った。
それから、しばらく動かなかった。
俺は気づいていなかった。
澪が少しずつ俺のところへ逃げてきていることに。
家で嫌なことがあった時。
誰かに傷つけられた時。
不安になった時。
彼女は俺のところへ来るようになった。
そして俺もそれを拒まなかった。
ある日の放課後。
「九條くん」
「ん?」
澪は俺の袖を掴んだ。
「……今日は、帰りたくないです」
「また?」
「……はい」
「じゃあ、どこか行く?」
そう聞くと澪は少しだけ考えた。
「九條くんの家……」
「……え?」
「いえ」
澪は慌てて首を振った。
「今のは、忘れてください」
俺は少し驚いた。
でも。
「……別に、来る?」
澪の動きが止まった。
「え?」
「いや、帰りたくないんだろ」
「……いいんですか?」
「何もないけど」
「……はい」
澪は小さく頷いた。
その顔は今日初めて、少しだけ安心していた。
そして俺はまだ知らなかった。
この日を境に冬月澪にとって。
俺の家が、俺の隣が、俺自身が逃げ場所になっていくことを。
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