4話
九條蓮司が学校に戻ってきてから、一ヶ月が経った。
あの日、冬月澪に血を吐いたところを見られた。
……正確には、血のついたティッシュを捨てているところを見られた。
澪は何も聞かなかった。
ただ、少しだけ様子がおかしくなった。
「九條くん」
「ん?」
「今日のお昼、一緒に食べませんか?」
「え?」
「……嫌でしたか?」
「いや、別に」
そんな会話が増えた。
昼休みになると、澪が俺の席に来る。
一緒に昼食を食べる、といっても、俺はあまり食欲がない日が多い。
澪はそれを気にしているようだった。
「九條くん、今日はそれだけですか?」
「うん」
「少なすぎませんか?」
「朝食べたから」
嘘だ。朝は薬だけ飲んだ。
「……本当に?」
「本当に」
澪はじっと俺を見る。
最近、彼女はこうして俺の顔をよく見るようになった。
まるで、何かを探しているみたいに。
「冬月?」
「いえ」
澪は小さく笑った。
「九條くんは、嘘が下手ですね」
「……そう?」
「はい」
その笑顔は、少しだけ楽しそうだった。
原作の冬月澪は、もっと完璧だった。
誰に対しても同じ笑顔を向けていた。
でも今の澪は、俺の前では少しだけ表情が違う。
よく笑う。
よく話す。
そして、よく俺を見る。
俺が休んだ翌日には、必ず聞いてくる。
「昨日は、何をしていたんですか?」
「寝てた」
「ずっと?」
「だいたい」
「……そうですか」
そして、少し安心したような顔をする。
そんな日々が続いた。
俺は相変わらず、原作に関わるつもりはなかった。
朝霞ひよりと天音悠真は、順調に仲を深めている。
原作通りだ。
クラスの中でも、二人はかなり有名なカップルになりつつあった。
「天音くん、今日も朝霞さんと一緒に帰るんだって」
「もう付き合ってるようなもんじゃん」
「でも、正式にはまだなんだよね?」
そんな会話が聞こえてくる。
俺はそのたびに、少しだけ冬月を見る。
彼女は笑っている。
「冬月さん、天音くんたちのことどう思う?」
水篠結菜が聞いた。
「お似合いだと思いますよ」
澪は即答した。
「本当に?」
「はい」
「嫉妬とかしないの?」
「……どうしてですか?」
「いや、冬月さんも天音くんと仲良かったじゃん」
「そうですね」
澪は笑う。
「でも、私は二人を応援していますから」
その言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ、俺だけは知っている。
その笑顔の奥にあるものを。
まだ、澪は壊れていない。
ただ少しずつ、何かを諦め始めている。
それが分かった。
ある日の放課後。
「九條くん」
昇降口で、澪が俺を呼び止めた。
「ん?」
「これを」
澪が鞄から折り畳み傘を取り出した。
「ああ」
すっかり忘れていた。
「一ヶ月も借りてしまって、すみません」
「別にいいよ」
「でも、ずっと返せなくて」
「学校に来た時に返せばいいんだから、そんなに気にしなくていいって」
「……はい」
澪は傘を差し出した。
俺は受け取る。
ただそれだけのことだった。
なのに澪は、なぜか少し寂しそうな顔をした。
「どうした?」
「……いえ」
「傘を返したから?」
「違います」
澪は少し考えてから、俺を見た。
「九條くん」
「ん?」
「また、傘を貸してくれますか?」
「雨が降ったらな」
「……そうですか」
澪は、少しだけ笑った。
俺はその時、気づいていなかった。
澪が傘を返すのを、一ヶ月も先延ばしにしていた理由に。
ただ返すだけなら、もっと早く返せた。
でも、返してしまえばあの日の繋がりがなくなってしまう気がした。
その夜。
俺は自宅のベッドで、薬を飲んでいた。
最近、体調が悪い日が増えた。
以前より疲れやすい。
階段を上るだけで息が切れる。
胸の痛みも増えた。
そして血を吐くことも、少しずつ増えていた。
「……まだ、数ヶ月だろ」
机の上に置かれた薬を見る。
医者から言われた。
残された時間は一年ほど。
でも時間は、確実に減っている。
俺はスマホを見る。
通知が一件。
冬月澪からだった。
『今日はありがとうございました』
たったそれだけ俺は少し考えてから返信した。
『こちらこそ』
すぐに既読がついた。
『明日も、学校に来ますか?』
俺は少し笑った。
『行くつもり』
『よかったです』
それだけのやり取り。
なのになぜか、少しだけ嬉しかった。
翌朝。
俺は目を覚ました。
「……」
身体が重い、いつものことだ。
ベッドから起き上がる。
その瞬間、強い吐き気が込み上げた。
「……っ」
洗面所へ向かう。
口元を押さえる。
そして赤い血が、洗面台に落ちた。
「……」
しばらく、何も考えられなかった。
蛇口をひねる。
赤い色が、水に流されていく。
俺は鏡を見る。
顔色が悪い。
それでも。
「……学校、行くか」
制服に着替えた。
今日は、冬月と昼を食べる約束をしている。
別に約束というほどのものではない。
ただ、昨日。
「明日も一緒にお昼食べませんか?」
「いいけど」
そう言っただけだ。
だから、行く。
それだけ。
「九條くん、おはようございます」
教室に入ると、冬月澪が声をかけてきた。
「ああ、おはよう」
「……」
澪は、俺の顔を見た。
「どうかした?」
「いえ」
少し間を置いて。
「今日は、顔色が悪いです」
「寝不足」
「本当に?」
「本当」
澪はじっと俺を見る。
それから、小さく息を吐いた。
「……九條くんは、すぐに大丈夫と言いますね」
「そうかな」
「はい」
彼女はそう言って、自分の席に戻った。
俺も席に座る。
その直後胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
机の下で、拳を握る。
痛みが引くまで、じっと耐える。
そしてふと前を見る。
冬月澪が、こちらを見ていた。
目が合う。
「……」
「……」
澪は何も言わなかった。
ただ俺のことを見ていた。
まるで俺がいつか、自分の前から消えてしまうことを恐れるように。
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