3話
三日目の朝。
俺は目を覚ますと、天井を見つめた。
「……まだ熱あるのか」
体温計を見る。
三十七度六分。
昨日よりは下がっているけれど、身体が重い。
喉も痛い。
そして何より。
「……学校、行きたくないな」
風邪を引いて三日目。
そろそろ行かないと、さすがにまずい。
俺はベッドから起き上がろうとした。
その瞬間。
「……っ」
胸の奥が、鋭く痛んだ。
思わず胸を押さえる。
数秒、痛みが引くまで、じっと待つ。
「……風邪のせいだろ」
そう呟いて、無理やり立ち上がった。
洗面所へ向かう。
顔を洗い、鏡を見る。
顔色が悪い。
まあ、三日も寝込んでいれば当然か。
俺は薬を飲み、制服に着替えた。
今日は行くそう決めた。
「九條くん、今日も来てない……」
冬月澪は、空いた席を見ていた。
三日目。
昨日も一昨日も九條蓮司は学校に来ていない。
「風邪、長引いてるのかな」
朝霞ひよりが心配そうに言う。
「そうかもね」
澪は答えた。
でも、心の中では別のことを考えていた。
――私のせいでしょうか。
傘を貸してもらった。
九條くんは、自分は大丈夫だと言っていた。
でもあの日、彼は濡れて帰った。
「……」
澪は鞄を見る。
折り畳み傘まだ返せていない。
返さなければそう思っているのに九條くんがいない。
その事実が、どうしてか気になった。
授業中も休み時間も気づけば、空いた席を見ている。
「冬月さん」
隣の席の水篠結菜が声をかけてきた。
「何ですか?」
「九條くんのこと、気になってる?」
「……え?」
「だって、ずっと席見てるから」
「そ、そんなことは……」
「ふーん?」
結菜はにやにや笑った。
「傘もまだ持ってるし」
澪は鞄の中を見た。
「これは、返すために……」
「じゃあ連絡先聞けばいいじゃん」
「……」
その言葉に、澪は黙り込んだ。
連絡先、知らない。
たった一度、傘を貸してもらっただけ。
そんな相手に、わざわざ連絡先を聞くのは。
「……迷惑ではないでしょうか」
「え?」
「いえ……」
澪は小さく首を振った。
どうしてこんなことを気にしているのだろう。
その日の放課後。
俺は結局、学校へ行けなかった。
朝、制服に着替えたところまでは良かった。
しかし、玄関に立った瞬間。
身体から力が抜けた。
「……無理だな、これ」
熱は三十七度八分。
胸も痛い。
俺はそのままベッドへ戻った。
薬を飲む、水を飲む、寝る。
それだけスマホを見る。
誰からも連絡はない。
当然だ、俺はモブだ。
原作では名前すら出ない。
誰かが心配してくれるような人間ではない。
そう思ったところでスマホが震えた。
「……?」
知らない番号。
俺は少し迷ってから、電話に出た。
『もしもし』
「はい」
『あの……九條くん、ですか?』
女の子の声だった。
聞き覚えがある。
「……冬月?」
『はい』
どうして俺の電話番号を知っている。
『突然すみません』
「いや、別に……」
『あの、体調は大丈夫ですか?』
「……まあ」
『本当に?』
声が少し強くなった。
俺は黙った。
「風邪」
『そうですか』
「三日くらい休んでるけど、明日には行けると思う」
『……よかった』
澪の声が、少しだけ柔らかくなる。
それから、少し沈黙が続いた。
「……それだけ?」
『え?』
「いや、電話してきた理由」
『あ……』
澪は少し慌てた。
『傘を……』
「ああ」
『返したくて』
「別に、いつでもいいよ」
『でも』
「俺、明日行けたら行くし」
『……はい』
また沈黙。
電話越しでも、澪が何か言いたそうにしているのが分かった。
「冬月?」
『……九條くん』
「ん?」
『ありがとうございました』
「傘?」
『はい』
「気にしなくていいって」
『でも……』
少しだけ、声が震えた。
『九條くんが風邪を引いたのは、私が傘を借りたからです』
「違うだろ」
『でも』
「俺が勝手に貸したんだよ」
『……』
「だから、冬月のせいじゃない」
電話の向こうで、澪が黙った。
俺は少しだけ困った。
こんなことで、そこまで気にするものなのか。
「じゃあ、明日」
『……はい』
「おやすみ」
『おやすみなさい』
電話が切れた。
俺はスマホをベッドの横に置く。
「……疲れた」
そして、そのまま眠った。
翌朝。
冬月澪は、いつもより早く学校に来ていた。
鞄の中には、折り畳み傘。
今日こそ返す、そう決めていた。
やがて、教室の扉が開く。
「おはよう」
篠宮朔の声。
その後ろから。
「……おはよう」
九條蓮司が入ってきた。
澪は、思わず立ち上がった。
「九條くん……!」
「ん?」
蓮司は少し驚いた顔をする。
「どうした?」
「いえ……」
澪は、そこで気づいた。
顔色が悪い、目の下に隈がある。
それに歩き方が少しおかしい。
「……本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫だって」
蓮司は笑った。
その笑顔は、どこか昨日の自分に似ていた。
無理をしている笑顔。
澪は、なぜかそう思った。
「……」
蓮司が自分の席に向かう。
澪は鞄の中の傘を握りしめた。
そしてその日の昼休み。
蓮司は、誰もいない廊下で口元を押さえた。
「……っ」
咳が出る。
次の瞬間、手のひらに、赤いものが落ちた。
「……血?」
蓮司はしばらく、それを見つめていた。
そして。
「……最悪だ」
誰にも見られていないことを確認して何事もなかったように、手を洗った。
その一部始終を廊下の角から、冬月澪が見ていた。
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