21話
翌朝。
目を覚ました時。
俺はもう分かっていた。
今日か明日がたぶん最後の日になる。
身体を起こすことすら昨日よりも難しかった。
「……」
胸が痛い。
呼吸が浅い。
咳をする。
口元を押さえる。
黒い。
昨日よりも明らかに
俺はしばらく手のひらを見つめた。
「……」
そしてベッドを見る。
冬月澪が眠っている。
昨日俺の家から帰らなかった。
俺の腕を掴んだまま。
ずっと俺がここにいることを、確認するように眠っていた。
「……」
俺はその寝顔を見た。
そして決めた。
――ここで死ぬわけにはいかない。
澪の前で死ぬわけにはいかない。
この子はきっと耐えられない。
俺の死を。
目の前で見たら。
今度こそ本当に壊れてしまう。
「……ごめん」
俺は眠っている澪に小さく呟いた。
そしてゆっくりベッドから抜け出した。
俺はできるだけ音を立てないように、準備をした。
荷物はほとんど持たなかった。
財布、スマホ、薬。
最低限の着替え。
それだけ行き先は決めていなかった。
ただ遠くへ行く。
澪が簡単には来られない場所へ。
それだけを決めた。
俺は机の前に座った。
紙を一枚。
取り出す。
ペンを持つ。
しばらく何も書けなかった。
何から書けばいいのか。
分からない。
ありがとう。
ごめん。
さようなら。
そんな言葉を書くのはあまりにも簡単だった。
でも澪に伝えたいことはそれだけじゃない。
俺はゆっくりペンを動かした。
冬月へ。
これを読んでいるということは、俺はもう、家にいないと思う。
たぶん、怒っていると思う。
勝手にいなくなるなとか。
どうして何も言わなかったのかとか。
そう思ってくれたらいい。
怒ってくれた方がいい。
俺は冬月に会うつもりはなかった。
本当は関わるつもりもなかった。
俺は、自分が長くないことを知っていたから。
誰かと仲良くなっても、その人を置いていくことになる。
だから最初から、誰とも深く関わらないつもりだった。
でも雨の日、冬月が一人で立っているのを見た。
そして傘を貸した。
それだけだった。
それだけのつもりだった。
でも気づいたら、冬月が俺の家に来るようになっていた。
一緒にご飯を食べて。
映画を見て。
眠って。
くだらない話をして。
俺はその時間が好きだった。
冬月が俺のベッドで眠っているのを見るのも。
俺の服を掴んでいるのを見るのも。
俺がいないと不安そうにするのも。
全部。
俺は嬉しかった。
だからごめん。
俺がいなくなった後、冬月がどうなるのか。
俺には分からない。
でもお願いだから、俺がいなくなったからって自分までいなくならないでほしい。
俺は冬月に生きてほしい。
俺のためじゃなくていい。
俺のことを忘れてもいい。
俺以外の誰かを好きになってもいい。
俺がいなくてもちゃんと笑ってほしい。
……たぶん。
俺はそんなことを言える立場じゃない。
冬月が俺に依存していることを、知っていた。
それでも俺は冬月を甘やかした。
撫でた。
抱きしめた。
ずっとここにいるみたいな顔をした。
だから俺も悪い。
ごめん。
でもそれでも冬月と過ごした時間は俺にとって、最後の時間として最高だった。
ありがとう。
俺を見つけてくれて。
俺のところに来てくれて。
俺の家で眠ってくれて。
俺におかえりなさいと言ってくれて。
俺にただいまと言わせてくれて。
本当にありがとう。
冬月。
俺がいなくてもちゃんと生きてくれ。
――九條蓮司
書き終わった。
俺はしばらくその手紙を見つめた。
「……」
こんなものを書いてどうするのだろう。
澪は泣くだろうか。
怒るだろうか。
俺を探すだろうか。
たぶん全部だ。
俺は手紙を封筒に入れた。
そして机の上に置く。
澪が必ず見る場所に。
「……」
俺は最後にもう一度、澪の寝顔を見た。
近づいて髪に触れようとした。
でもやめた。
起きてしまうから。
「……」
俺は小さく笑った。
「じゃあな」
声には出さなかった。
そして玄関へ向かった。
靴を履く。
ドアを開ける。
夏の終わりの空気が外から入り込んでくる。
俺は一度だけ、家の中を振り返った。
この部屋で澪は何度も眠った。
笑った、泣いた。
俺に甘えた。
そして俺はそんな澪を何度も撫でた。
「……」
俺はドアを閉めた。
鍵をかける。
そして歩き出した。
行き先は決めていない。
ただ遠くへ。
できるだけ遠くへ。
澪の前ではない場所へ。
俺はゆっくり歩いていく。
数歩、歩いただけで息が苦しくなった。
「……」
それでも止まらなかった。
俺は最後まで、自分の足で歩きたかった。
そして遠くへ行く。
誰にも見つからない場所へ。
その頃。
冬月澪はまだ眠っていた。
九條蓮司がもう家を出たことも。
机の上に一枚の手紙が置かれていることも。
まだ知らなかった。
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