19話
冬月澪は俺の部屋に入ってから、一度も笑わなかった。
「……」
いつもなら今日は何をしますか?とか、何か食べますか?とかそういうことを言う。
でも今日は何も言わない。
ただ俺のことを見ている。
「……」
「そんなに見られると落ち着かないんだけど」
「九條くん」
「ん?」
「病院で、何と言われましたか?」
やっぱりその話になるか。
「別に」
「別に、ではありません」
「少し体調が悪いって言われただけ」
「……」
澪はゆっくりと俺の前まで歩いてきた。
「嘘です」
「何でそう思うの?」
「九條くんは」
澪は俺の顔を見た。
「嘘をつくと、目を逸らすので」
「……」
知らなかった。
自分がそんな癖を持っているなんて。
「それに」
澪は続けた。
「今日は、私が来てから一度も大丈夫と言っていません」
「……」
俺は黙った。
確かにいつもなら大丈夫、平気、問題ない。
そう言っている。
でも今日は言えなかった。
「……少し悪くなっただけだよ」
「どのくらいですか?」
「……」
「九條くん」
「冬月」
「どのくらいですか?」
澪の声は震えていた。
俺はソファに座った。
澪も俺の隣に座る。
近い、肩が触れている。
「……」
俺は窓の外を見た。
夏の終わりの空。
まだ暑い。
でも季節は確実に変わり始めている。
「……医者には」
「はい」
「入院しろって言われた」
「……」
「でも断った」
「どうしてですか?」
「家にいたかったから」
「……」
澪は少しだけ俯いた。
「それで?」
「それで?」
「他には」
「……」
俺は口を閉じた。
澪は俺の袖を掴んだ。
「他には、何を言われましたか?」
「……」
「九條くん」
その声を聞いて。
俺はもう隠せないと思った。
少なくとも今日の自分は、上手く隠せていない。
「……あと一週間くらいだって」
澪の手が止まった。
「……何がですか?」
「俺が」
俺はなるべく平静に言った。
「生きられる時間」
「……」
澪は何も言わなかった。
まるで言葉の意味が分からないように。
「……」
「冬月?」
「……嘘」
「……」
「嘘ですよね?」
澪は俺の方を向いた。
「九條くん」
「……」
「嘘ですよね?」
「嘘じゃない」
「……」
澪の顔から血の気が引いていく。
「……一週間?」
「うん」
「一週間って……」
「医者が言っただけだから」
「……」
「実際には、もっと長いかもしれないし」
「嘘です」
「え?」
「そういう言い方をする時は」
澪の声が震えた。
「悪い時です」
「……」
「九條くんはいつもそうです」
「冬月」
「大丈夫って言って」
澪は俺の服を掴んだ。
「大丈夫じゃないのに」
「……」
「平気って言って」
「……」
「何でもないって言って」
その手に力が入る。
「何でもないわけないじゃないですか……」
俺は何も言えなかった。
澪の目から涙が落ちた。
「……」
俺はそっと手を伸ばした。
澪の頭に触れる。
「泣くなよ」
「無理です」
「……」
「無理に決まってるじゃないですか……」
澪は俺の胸に顔を押しつけた。
「……九條くん」
「うん」
「嫌です」
「……」
「嫌です」
何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「死なないでください」
「……」
「九條くん」
「……」
「死なないで」
俺は澪の背中に腕を回した。
「……ごめん」
「謝らないでください」
「……」
「謝らないで……」
澪は俺の服を握りしめた。
「私、何もできないじゃないですか」
「そんなことない」
「あります」
「……」
「私が何をしたって」
澪の声がどんどん小さくなる。
「九條くんが死ぬなら……」
「冬月」
「私のところに来てくれたのに」
「……」
「私を助けてくれたのに」
俺は少しだけ目を閉じた。
そうだった。
俺は原作の結末を知っていた。
冬月澪が誰にも救われず、最後には壊れてしまうことを。
だから関わらないつもりだった。
俺はもうすぐ死ぬ。
そんな俺が誰かを救おうとするなんて、無責任だと思っていた。
それでも見ていられなかった。
雨の日傘を貸した。
ただそれだけだった。
その小さな行動から澪は俺の隣に来た。
そして俺も澪の隣にいた。
「……」
俺は自分の胸に顔を埋めている澪を見る。
「冬月」
「……はい」
「俺がいなくなった後も」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「言わないでください」
「……」
「聞きたくありません」
澪は俺の胸に顔を押しつけたまま。
「九條くんがいなくなった後の話なんて」
「……」
「聞きたくないです」
「でも」
「嫌です」
澪の声が今まで聞いたことがないほど弱かった。
「九條くんがいなくなることなんて」
その言葉が俺の胸に刺さった。
俺はあと一週間で死ぬ。
そして澪は、俺がいなくなることを知ってしまった。
これでもう今までのようには戻れない。
その日澪は帰らなかった。
「冬月」
「帰りません」
「……」
「今日は、ここにいます」
「親には?」
「連絡しました」
「何て?」
「友達の家に泊まると」
「……」
「嘘ですけど」
澪は俺のベッドに横になった。
俺の枕を抱きしめる。
「……」
「冬月」
「何ですか?」
「そこ、俺のベッド」
「知っています」
「……」
「嫌ですか?」
俺は何も言わなかった。
澪は枕を抱えたまま。
「……九條くんの匂いがします」
「それ、普通に嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
「そう」
「落ち着きます」
澪は目を閉じた。
でも眠れないらしい。
何度も目を開ける。
俺の姿を確認する。
「……」
「寝ないの?」
「九條くんがいるか確認しています」
「ここにいるよ」
「……はい」
少し経つまた目を開ける。
「冬月」
「……すみません」
「別に」
俺はベッドの横に座った。
澪の髪を撫でる。
すると澪は少しだけ安心したように目を閉じた。
「……」
「九條くん」
「ん?」
「寝るまで」
「うん」
「ここにいてください」
「分かった」
「……」
澪の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
やがて眠った。
俺はその顔を見つめた。
あと一週間。
たった一週間。
それなのに俺はこの子をどうすればいいのか分からなかった。
俺が死んだら澪はどうなる。
原作のように壊れてしまうのか。
それとも俺が残したものだけで、どうにか生きていけるのか。
「……」
答えは分からない。
でもひとつだけ、確かなことがあった。
俺はこの一週間澪の隣にいる。
できる限り最後まで。
――それだけは絶対に守ろうと思った。
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