17話
一週間ぶりに家へ帰ってきてから、俺の生活は、また元に戻った。
いや正確には戻ったように見えただけだった。
俺の体調は、明らかに悪くなっていた。
朝、起きるのが辛い。
少し歩くだけで息が切れる。
階段を上ると、しばらく動けなくなる。
そして血を吐くことも、珍しくなくなっていた。
「……」
洗面台に手をつく。
咳をする。
口元を押さえた手のひらが赤く染まる。
俺は、それを水で流した。
何度も、何度も。
まるで何もなかったことにするように。
そして。
「……おはようございます」
インターホンが鳴った。
俺は急いで口元を拭いた。
「……冬月か」
玄関まで向かう。
以前なら数秒で済んだ距離が、今は少し遠く感じる。
「おはよう」
ドアを開ける。
「……」
澪は、俺の顔を見るなり黙った。
「どうした?」
「……何でもありません」
「そう?」
「はい」
澪は家の中に入った。
でもその視線は、ずっと俺の顔に向いていた。
「九條くん」
「ん?」
「少し、休んでください」
「まだ朝だぞ」
「だからです」
「……」
「朝から、そんな顔をしている人が無理をしてはいけません」
「そんな顔って」
「……」
澪は少しだけ眉を寄せた。
「死にそうな顔です」
「言い方」
「すみません」
澪は本当に申し訳なさそうにした。
俺は苦笑する。
「別にいいよ」
俺はソファに座った。
澪は、その隣に座る。
少し距離が近い。
最近は、それが当たり前になっていた。
「……」
「何?」
「いえ」
澪は何も言わず、俺の肩に頭を預けた。
「……冬月?」
「少しだけです」
「何が?」
「こうしていたいです」
「……」
俺は黙った。
澪は、俺の肩に頭を乗せたまま目を閉じる。
「一週間、会えなかったので」
「もう帰ってきただろ」
「はい」
「じゃあいいだろ」
「……」
「冬月?」
「帰ってきてくれて、よかったです」
その言葉に俺は返事ができなかった。
夏休みはゆっくりと終わりに近づいていた。
俺たちは、ほとんど毎日一緒にいた。
澪は俺の家に来る。
俺はできる範囲で相手をする。
ゲームをする、映画を見る、課題をする、澪が眠る。
そんな日々だった。
ただ最近は澪が眠る場所が、ほとんどベッドになっていた。
「……」
俺が机に向かっていると、澪は当然のように俺のベッドに横になる。
俺の枕を使い。
俺の布団をかぶりそのまま眠る。
「冬月」
「……」
「そこ、俺のベッドなんだけど」
「知っています」
「知ってて使ってるの?」
「はい」
「……」
「嫌ですか?」
澪は布団から顔だけを出した。
「いや」
「では、問題ありませんね」
「そういう問題か?」
「はい」
澪はそう言ってまた目を閉じた。
俺はそんな澪を見て少しだけ笑った。
いつの間にか俺の家は、俺一人の場所ではなくなっていた。
ある日の夕方。
澪は、いつものように俺のベッドで眠っていた。
俺は机に向かっていた。
でも今日は、体調が悪かった。
朝からずっと胸が苦しい。
薬を飲んでもあまり楽にならない。
「……」
俺は椅子から立ち上がった。
その瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
俺は机に手をついた。
呼吸が苦しい。
心臓が、嫌な音を立てているような気がした。
そして。
「……っ、げほっ」
咳が出た。
口元を押さえる。
赤い。
今までよりも明らかに多かった。
「……」
俺はしばらく動けなかった。
ベッドを見る。
澪は眠っている。
起きていない。
「……よかった」
小さく呟いた。
俺は洗面所へ向かった。
血を洗い流す。
何度も水を流す。
それでも手のひらに残った赤色が、なかなか消えない気がした。
「……」
数ヶ月。
あの言葉が頭から離れない。
俺はいつまでここにいられるのだろう。
「……九條くん?」
背後から声がした。
俺は振り返った。
「起きた?」
「はい」
澪は、寝ぼけた顔で立っていた。
「どこに行っていたんですか?」
「水を飲みに」
「……」
澪は俺を見た。
そしてゆっくり近づいてくる。
「顔色が悪いです」
「寝起きだから」
「……」
澪は、俺の顔をじっと見た。
「また、何か隠していますか?」
「何も」
「本当に?」
「うん」
澪は黙った。
それから俺の胸元に顔を埋めた。
「……」
「冬月?」
「……」
「どうした?」
「少しだけ」
澪の手が俺の服を掴む。
「少しだけ、このままでいてください」
俺はそのまま動かなかった。
「……はい」
澪は小さく答えた。
俺の胸に耳を当てる。
心臓の音を聞いているのかもしれない。
「……」
俺は澪の頭に手を置いた。
撫でる。
澪は目を閉じた。
「九條くん」
「ん?」
「夏休みが終わっても」
「うん」
「こうしていてもいいですか?」
「何が?」
「毎日、会いに来ても」
「……」
「嫌ではありませんか?」
俺は少し考えた。
そして。
「嫌なら、とっくに言ってる」
そう答えた。
澪は俺の服を掴んだまま。
「……よかった」
と呟いた。
夏休み最後の日。
澪は、いつもより遅くまで俺の家にいた。
「明日から学校ですね」
「そうだな」
「……」
「どうした?」
「少し、楽しみです」
「学校が?」
「……九條くんに会えるので」
「毎日会ってただろ」
「それでもです」
澪は笑った。
俺はその笑顔を見つめた。
明日からまた学校が始まる。
また原作の物語が進む。
原作では夏休み明けから、悠真とひよりの距離がさらに近づいていく。
そして冬月澪は少しずつ、自分の気持ちを押し殺していく。
原作を知っている俺にはこの先に何が起こるか分かっている。
だから夏休みが終わることが、少し怖かった。
「……」
俺は澪を見る。
彼女は何も知らずに笑っている。
俺がいつかいなくなることも。
原作で自分が壊れてしまうことも。
何も知らない。
「……九條くん?」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや」
俺は笑った。
「明日も来るんだろ?」
「はい」
「じゃあ、寝坊するなよ」
「九條くんこそ」
澪は少し笑って俺のベッドに横になった。
「……」
「寝るの?」
「少しだけです」
「また?」
「はい」
俺はその姿を見つめた。
明日からまた物語が動き始める。
そして俺の残された時間も確実に減っていく。
俺は眠る澪の髪をそっと撫でた。
明日もこの子の隣にいられますように、そんなことを願った。
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