昔噺 Ⅰ
ふわふわと漂っている、いや、縛り付けられている?歩いてる?寝てる?目が開いてる?それとも瞑ってる?右手は?左手は?右足は?左足は?動く?動かない?
わからない、わからない?わからない。
私は、俺は、僕は、あなたは、君は一体何なの?
いつからこうしてるの?
声が、聞こえた。
『哀れな子よ』
どこから聞こえてくるのかわからない。
上でも下でもない、全部の方向から、あるいはどこからでもない場所から。
『其方に、ーーーの役割を与える』
その日、◻️◻️が、◻️◻️として自我を持った。
昏い昏い森の木々から、木漏れ日が差していた。
どこかから光が来て、地面の苔を照らしている。◻️◻️の誕生を祝福しているようだった。
「……」
木漏れ日に手を伸ばす、光はつかめない。
光は、すり抜けていった。
「……??」
◻️◻️は移動してみた。山をいろいろ見て回った。
足音がしない。
それが最初に気づいたことだった。
どれだけ歩いても、踏んだ葉が音を立てない。踏んでいるのかどうかも、よくわからない。
でも、見えた。
古い杉の木が、空に向かって真っ直ぐに伸びていた。幹が太く、根が地面から盛り上がっている。ここに何百年あるのだろうと思った。何百年、という概念がいつ入ってきたのかはわからない。ただ、そう思った。
鹿がいた。
遠くで草を食んでいる。角がある。大きい。こちらを見ても、気にする様子がない。気配を感じとれないのか、感じとった上で平気なのか、どちらかはわからなかった。
風が来た。
山の上から吹き下りてくる風で、木々の枝が揺れた。葉がこすれる音がした。音が聞こえた。自分の足音は聞こえないのに、風の音は聞こえる。不思議だと思った。
雨が来た日もあった。
雨の音は大きかった。葉を叩き、土を叩き、細い川を増やした。◻️◻️は濡れない。雨粒◻️◻️の身体を通り抜けていく。でも、雨の匂いはした。土が濡れる匂い。草の匂い。
季節が変わった。木々の色が変わった。
青かった葉が黄色くなり、赤くなり、落ちた。枝だけになった木の向こうに、白い空が見えた。雪が来た。音が静かになった。雪の日の山は、雨の日よりずっと静かだった。木の枝に白が積もり、たまに落ちて、その音だけがぽとりと響いた。
また春になった。
◻️◻️はそれを、何度も繰り返した。
〜〜〜
ある日、山の麓に近づいた。
緑が見えた。
山の木のような暗い緑じゃない。地面いっぱいに広がる、明るい明るい緑があった。田んぼだ、という言葉が浮かんだ。遠くに家がある。煙が上がっている。
でも、いけなかった。
山と緑の境、ほんのわずかな境目に差し掛かると、足が止まった。正確には足があるのかもわからなかったが、とにかく、進めなかった。越えてはいけないと、自分の中の何かが知っていた。
「………」
綺麗だった。
あの緑の先に、あの煙のある場所に、行ってみたかった。でも、ここから先には行けない。ここが、◻️◻️の世界の端だった。
〜〜〜
時が経つ、数年。
山に季節が来て、去って、また来る。それを数えることが、あまり意味を持たなくなっていた。
ある秋の日、山道に人が来た。
若い女だった。白い着物に、赤い袴。髪を高く結って、手に榊を持っている。巫女だ、という言葉が浮かんだ。以前——いつかの以前に、そういう存在を知ったことがあったのかもしれない。
『掛けまくも畏き 山の大神の御前に謹みて申し上げます、今日ここに参りし我ら、御山の恵みに感謝申し上げます。』
巫女は山道を登りながら、何かを唱えていた。祝詞らしかった。声が山に響く。低く、滑らかで、山の音によく溶けた。
◻️◻️は木の陰に隠れた。
人間に見られるのが怖かったわけではない。ただ、なんとなく、近づきたくなかった。
巫女はそれから何度も来た。月に一度か、二度か。来るたびに祝詞を唱え、榊を供え、山を少し歩いて帰っていく。
『木々を育み、清き水を湧かせ、多くの命を養いたもう御神の御稜威を畏み、深く敬います。』
◻️◻️はいつも隠れた。
「……そこに、いるのでしょう?」
ある日、巫女が木の陰に向かって言った。
「わかっておりますよ。そのお姿隠せてもそのご威光は隠せません」
◻️◻️は黙っていた。
「別に怖くないですよ。ただ、挨拶したいのです。」
巫女は木の根に腰を下ろし、持ってきた包みを開けた。おにぎりが入っていた。
「一個、置いておきますね。食べなくていいですけど」
それだけ言って、巫女は祝詞を続けた。声は変わらない。焦っていない。怖がってもいない。ただ、続けている。
『願わくは、この山に入る我らの歩みをお守りいただき、災いなく無事に帰ることをお許しください。我らもまた山を汚さず、命あるものを尊び、御山の理を犯すことなく振る舞うことをここに誓います。恐み恐みも白す。』
◻️◻️はその日も隠れたままだった。でも、置かれたおにぎりを、少し長く見ていた。
〜〜〜
「なんで来るの」
声に出してみたのは、何度目かの後だった。
巫女は驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「仕事です。この山の神様である『貴方』に、ご挨拶するのが」
「神様じゃない」
「おや、そうなんですか?」
「……わからない」
巫女はしばらく考えてから、笑った。
「まあ、どちらでもいいです。ここにいる誰かに、ちゃんとご挨拶したかったので」
それが、最初の会話だった。
季節が変わるたびに、巫女は来た。
ある時、◻️◻️は尋ねた。
「名前、は?」
巫女は少し嬉しそうに答えた。
「伽耶です」
それからは、◻️◻️は心の中で彼女を「伽耶」と呼んだ。
伽耶は話し好きだった。山の外のことを話してくれた。村の話、季節ごとの祭りの話、旅人に聞いた遠くの街の話。◻️◻️は黙って聞いていることが多かったが、時々、質問した。
「その外の世界は、どんな音がするの」
「え?」
「ここは静かなの、たまにミーンミーンってなったりガサガサってなるけど」
伽耶は少し考えてから、「にぎやかですよ。人がいっぱいいて、物売りが声を出して、子供が走り回って」
「ここみたいじゃない」
「全然違います。あなたはここが好きですか」
「……わからない。好きとか嫌いとか、あんまりわからない。でも、緑が綺麗だと思う」
「そうですね」
伽耶は木漏れ日を見上げて言った。
「ここは静かで、綺麗ですね」
◻️◻️には生まれついての霊力があった。何かができるのは分かるが、それを形にする方法を知らなかった。水の中に手を差し込めば確かに水があるのに、それを掴もうとしても形にならないような、もどかしさがあった。
伽耶は霊術を学んでいる巫女だった。でも、術式の形は知っていても、霊力の使い方を感覚で理解するのが難しかった。理屈は分かるのに、体が動かないような。
「こう、するの」
「こうですか?」
「もう少し、力を絞る感じ」
「……こお?」
「そう」
ぎこちないやりとりが、何度も繰り返された。それでも、二人で少しずつ何かを積み上げていくのが、不思議と楽しかった。
「ね、ひとつ教えてあげる」
ある日、伽耶が言った。
「『言霊』っていって、言葉にすると形にしやすいの。霊力って、名前がついた瞬間に形が決まるって、師匠が言ってた」
「ことだま」
「うん。試してみて。何か思い浮かぶもので」
◻️◻️は少し考えた。
山の音。風の音。葉がこすれる音。この山で聞いてきたものが、頭の中を流れていく。それを、声に乗せてみた。
『風雅』(ふうが)
ふわり、と。
周囲の空気が動いた。落ち葉が、ゆっくりと舞い上がった。木漏れ日がその間を通って、一瞬だけ輝いた。
「ほんと、だ」
「ほんと、でしょ」
伽耶が目を丸くして、笑った。
◻️◻️は、自分が今やったことの意味をうまく説明できなかった。でも、この山にあるものを言葉で引き出したような感覚があった。形がない何かを、声が形にした。
巫女はそのうちに、◻️◻️よりずっと上手く術式を扱えるようになった。◻️◻️は伽耶が来るのが楽しみになっていた。来る日が近づくと、それが分かるようになった。
年端もいかない少女だった巫女が大人になっていく間に、彼女の表情が少しずつ曇ることが増えた。
「外に出たい」とある日、伽耶は言った。
「出れないの?」
「そうじゃないですけど……私に巫女をやめられたら、困る人がいて」
「なんで困るの」
「私の霊力が強いから。後継ぎがいなくて、弟もいますし」
「じゃあ、やめたらだめなの」
「だめじゃないとは思うんですけど」
伽耶はそれ以上言わなかった。でも、次に来た時も、その次の時も、どこか遠くを見るような目をしていた。
山の外、麓の緑の向こう。◻️◻️が届かない場所へ。
ある夜の月明かりの中で、伽耶が来た。
いつもより遅い時間だった。荷物を持っていた。
「今夜、出ます」
「出るって」
「村を。周りがなんと言っても、もう決めました」
◻️◻️は黙っていた。
「貴方にはもう会えないかもだけど……」
伽耶は山の外の方角を見ながら言った。
「縁は途切れないから」
「あなたと私が、ここでした時間のこと。それは消えないから」
巫女は深く頭を下げた。長い間そうしていて、それから顔を上げた。
「達者でね」
足音がした。
それが初めて、◻️◻️がはっきりと聞いた少女の足音だった。軽くて、速い。山を下りていく。境目を越えて、田んぼの緑の方へ消えていく。
◻️◻️は境目の手前に立ったまま、その音を聞いていた。
ずっと、ずっと
遠くなってもずっと
やがて聞こえなくなってもずっと
月明かりが、山の木々を照らしていた。
〜〜〜
「寝ちゃってたの?俺」
「あ、フワ。起きたか」
「清和」
瞬きする間に、見えていた景色が消えた。天井がある。どこからか、いい匂いがしている。
「お前、急に寝やがって彩夢ちゃんが『霊力の使いすぎ』っていってたぞ」
「こんなの、久しぶりだ……クンクン、なんかいい匂いする」
「ああ、お前この前カレーが食べたいって言ってたろ、だから、ほら作ってやったぞ」
「……清和が?」
「んだよ、いやなら自分で食う」
「やだやだ!俺食べたい!」
「じゃあ、とっとと入ってこい」
「わーい」
廊下を走って台所へ向かいながら、フワはふと思った。
あの夢。あの山。あの声。
そして——あの子、『巫部伽耶』との縁を辿る。




