漆話
「こんな真っ暗、すぐに騒ぎになるぞ」
「現世には影響ないよ」
フワが静かに言った。さっきまで彩夢に抱えられていた体を、するりと抜け出して宙に浮く。
「ここは狭間だよ。現世と常世の、ちょうど間にある層。普通はこういう空間、自然には生まれない」
「つまり誰かが作った、人工物」
彩夢が光の檻の外——真っ黒な空間を見ながら言った。フワと視線を合わせ、無言で何かを確認する。短い間だったが、二人の間で何かが決まったらしかった。
「綾人、問題よ。ここは人が呪術的に作り出した空間。呪術というのは人間の魂に宿る霊力とは異なり、汚染された物や精神に宿り、それを力として行使する。つまり『物』を媒介にしているの、それなら?」
「この空間を作り出している物、つまり核を壊せばいい?」
「そう。核がある限り、この空間は維持される。壊せば現世に還る」
「核って、何なんだ」
清和が聞くと、フワが少し考えてから答えた。
「呪術師が力の中心にするもの。ものに宿らせることが多いよ。この場合は校内のどこかに隠してあるはずだよ」
「探すのか」
「探すの」
〜〜〜〜
小檻を解いて外に出ると、校内は別の場所になっていた。
廊下の形は同じだ。扉も、ロッカーも、手書きの看板も、あるべき場所にある。でも何かが違う。色が、ほんの少しだけ薄い。音が、遠い。さっきまで聞こえていた文化祭の声が、水の底から届くようにくぐもっている。
清和は自分の足音を聞いた。
普通の足音だ。でも、なぜかその音だけが妙にはっきり聞こえた。自分の体の音だけが、この空間では生々しく残っている気がした。
「さいっあく。文化祭の最中にこれって、清掃が大変ね」
「あの、文化祭は巻き込まれてないんですよね……?」
「現世には影響ない、って言っただろ。現世の人間には今この廊下が普通に見えてる。俺たちだけが狭間に引き込まれてる」
「見えてるのに見えてない、みたいな?」
「まぁ、そう」
フワが言い、清和の横に浮かんだ。
(……?)
フワがいる。すぐ隣にいる。なのに、遠い。
はっきりした距離ではない。
フワを見れば確かにそこにいる。でも、何か——糸の張り方みたいなものが、ゆるんでいる気がした。繋がっていることは分かるのに、その繋がりがどこか滲んでいるような。
(……なんだ、これ)
「清和」
フワが低い声で言った。
「この空間では俺たちの繋がりが薄れる。遠ざかったら余計にあやふやになるから、気をつけて」
「……わかった、お前は大丈夫なのか」
「俺は平気、あの子らも問題無さそうだけど、清和は感覚が普通の人間に近いから、変な感じがすると思う。怖くなったら声かけて」
(俺は生粋の普通の人間なんだが)
「了解」
〜〜〜〜
四人で廊下を進もうとした、その時だった。
揺れた。
地震ではない。床が上下に動いているわけではなかった。空間そのものが、歪んだ。
真っ直ぐだった廊下が、曲がった。壁が遠ざかり、天井が低くなり、あったはずの扉が消え、なかったはずの壁が現れた。
廊下の形が、見ている間に別の形に書き換えられていく。まるで紙を折り直すように、空間が、あるべきでない姿に折り畳まれていった。
「っ!」
バン、と音がした。
清和が振り返ると、そこに壁があった。さっきまで何もなかった場所に。
フワと彩夢と綾人の気配が、壁の向こうに消えていた。
「フワ?」
返事はなかった。
薄く、引き伸ばされたような気配だけが、どこか遠くからわずかに届く。切れてはいない。でも、さっきより一段階遠くなっていた。
「清さん」
隣に声がした。
綾人が壁に手を当てて立っていた。押しても動かない。術式で固定されているらしかった。
「分断されましたね」
「……そうだな」
「俺と清さんが一緒なのは、不幸中の幸いかもしれません」
それは強がりなのか本音なのか、どちらとも取れる言い方だった。
〜〜〜〜
その頃、壁の向こうでは。
影が来た。
彩夢が右手を前に出し、フワが左側へ回り込む。言葉はなかった。二人は一度も打ち合わせをしていないのに、動きが噛み合っていた。別々の場所で長い年月を過ごしてきたはずなのに、呼吸が合っている。
『除靄』(じょあい)
「ていっ」
彩夢の術が影の輪郭を削ぐ。そこへフワが霊力を込めた一撃を差し込む。影が散った。
「なかなかやるわね、坊や」
「お嬢ちゃんこそ」
「当然よ」
次の影が現れるまでの、ほんの数秒の凪。
彩夢の視線がフワの手元に止まった。霊力が収束する一点。その形、その質——どこかで見た気がした。いや、感じた気がする。
これは——
那岐家の資料庫の、鍵のかかった棚の一番奥。子供の頃に勝手に開けて読んだ、ひどく古い書物の一節。
普通の霊術師には出せない、特定の血と性質を持つものだけが持つとされた力の形が——
脳裏に、浮かんだ。
一言
『愛子よ』
「……坊や」
「うん?」
「その力、あなた——」
フワは彩夢を見た。
彩夢は止まった。
フワの表情は笑顔のままだった。変わっていない。でも、その目の奥が、少しだけ違う何かを言っていた。
触れてくれるな、と。
そう読めた気がした。
彩夢は口を閉じた。
「……なんでもないわ」
「そっか」
次の影が来た。二人は同時に動いた。
〜〜〜〜
下の階の廊下を、清和と綾人が歩く。
思っていたより静かだった。現世の文化祭が向こうにあるはずなのに、ここまでくるとその音がほとんど届かない。自分たちの、水にくぐもったような足音と、遠くの気配だけがある。
「清さん」
「ん」
「怖いですか」
「……普通に怖い」
綾人がそれを聞いて、少し表情を和らげた。
「俺も怖いです」
「そう、だよな」
「でも、大丈夫です。俺が守ります」
「うん」
二人で廊下を進む。扉を確認し、教室を覗く。何もない。また進む。
(フワ)
呼んでみると、薄くだが応答があった。遠いのに近い、あの変な感覚。なのにちゃんとそこにいるのが分かる。
少し、楽になった。
〜〜〜〜
見つけたのは一階の奥、普段は使われていないらしい準備室の中だった。
扉を開けると、黒いものが部屋の中央に浮かんでいた。
大きさはこぶし程度。形は不定形で、ゆっくりとひとりでに動いている。光を飲み込むように、周囲の色が薄くなっていた。あれが、核だ。
「あれですね」
「どう見てもあれだな」
二人が部屋に踏み込もうとした、その瞬間だった。
影が動いた。
床に這っていた影が形を持ち、綾人の足首に向かって伸びてくる。
「綾人!」
反射だった。
清和は数珠を握ったまま、腕を前に出していた。
何かが、手の中で熱を持った。
ほんの一瞬、パチン、と小さな音がした。
影が、弾けた。
完全には消えない。でも、綾人の足首に届く手前で確かに弾き返された。
「……え」
綾人が清和の手を見た。清和も、自分の手を見た。
数珠が、ほんのわずかに光っている気がした。すぐに消えたが、確かにそこにあった。
「清さん……今」
「わからん。自分でも」
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、それからまた核に向き直った。今は考えている場合ではない。
「俺がやります。でも、霊力が持つか……あ!」
「な、なに」
「清さん!あのチビとどんな『契り』を結んでますか?」
「……ちぎり?」
「さっき言ってたじゃないですか、チビの気配が感じられるって!あれ、つながりが続いてる証拠です」
「なら、清さんとチビの間には約束事があるはずです。チビは何か対価を求めてましたか?」
「一緒に住む、だったはず」
「それだけ……?それだけでそんなに強い縁が……いや。なら清さん、俺の力になってください」
清和はため息をついた。
「わかった。やる。で、何をすればいい」
「手を出してください」
綾人が清和の手を両手で包んだ。ちゃんとした、払い屋の顔だった。さっきまでの、泣きそうだったり照れたりしている綾人ではない。
「清さんとチビを繋いでいる縁が、今も清さんの中にある。それを俺に一時的に貸してほしい。俺が霊力を乗せる受け皿になってもらう、ということです」
「受け皿が俺でいいのか」
「チビとの縁がある人間じゃないと無理です。今ここで、それができるのは清さんだけ」
「……わかった」
「その代わり」
綾人は目を閉じた。
「俺は必ず、清さんを守ります。これは縛りです。もし俺が守れなかったら、俺は霊力が使えなくなる。だから——」
綾人が清和の手を握り直した。
「だから、信じてください」
清和は少し黙ってから、うなずいた。
「わかった、綾人君」
ふわりと、何かが手の中に沈んでいく感覚がした。温かくも冷たくもない、ただそこに在る、という感触だった。
〜〜〜〜
綾人が核に向かい合う。数珠を持ち直し、目を閉じた。さっきとは違う、静かな集中の顔だった。
その間に影がまた動く。清和は数珠を握り、腕を向けた。今度は意識的に。できるかどうか分からないまま、ただ「守る」と思って。
パチン。パチン。
二度、弾けた。
完全には防げていない。かすってくるものもある。でも、綾人に届く前に、何かが割り込んでいた。
(これが、霊力)
考えている暇はなかった。また影が来る。また弾く。
『灰滅』(はいめつ)
綾人が唱えた瞬間、核がひび割れた。
音はなかった。ただ静かに、内側から光が漏れて、次の瞬間に消えた。
〜〜〜〜
「やった、ですかね」
「やったな」
綾人が清和を見上げた。その顔に、今日初めてちゃんとした笑顔が出ていた。
清和は手の中の数珠を見た。もう光ってはいない。普通の数珠だ。でも、さっきの熱の感触は、まだ掌に残っていた。
「いま気づいたんですけど」
「清さん本来の霊力ですよ、あれ」
「へ……俺が?」
「はい。俺の数珠を媒介に霊力を引き出してましたね……チビの影響かなと」
「えぇ」
その瞬間、また揺れた。
核を失った狭間が、保つことができなくなったらしかった。廊下の壁に細かいヒビが走る。ヒビの向こうから、白い光が滲み出てくる。最初は糸のように細く、次の瞬間には線になり、面になり——
音が戻ってきた。
水の底から引き上げられるように、一気に。
文化祭の声が、急に大きくなった。廊下の色が、普通の廊下の色に戻っていた。壁のヒビは消え、あの黒い廊下はどこにもない。
〜〜〜〜
屋上で彩夢とフワと合流した。
「無事だったわね。アンタ、怪我は?」
「ないけど…。綾人君もたぶん」
「ないよ、姉ちゃん、そっちは?」
「片付けたわよ、一応。でも犯人の痕跡は残ってなかった。完全に逃げてる」
清和は彩夢とフワを見た。
二人が無言で何かを確認するように目を合わせた一瞬があった。ほんの一瞬で、次にはフワがいつものにこにこした顔に戻っていたので、清和には読めなかった。
「わかんなかったってことだよね、誰がやったか」
「そう、だね」
なぜか、少し間があった。
「フワ」
「うん?」
「何か知ってるか」
「知らないよ?」
「……そうか」
清和はそれ以上聞かなかった。聞いても今は答えが出ないと、なんとなく分かった。
「ただ」
しばらくして、彩夢が静かに言った。
「これだけの狭間を作って、特定の場所に張るには、相応の準備と目的がいる。迷い込ませたんじゃない」
「狙った、ってこと?」
「ええ」
誰が、とは言わなかった。
屋上に、しばらく沈黙があった。下から文化祭の声が聞こえてくる。焼きそばの匂いがする。現世は何事もなく続いている。
「あ、そうそう綾人」
フワが綾人を見た。
「あ?」
「今回は俺だからよかったけど、今度からは人の契りに干渉したらダメだよ?人によったら命とってくるからね?」
「え、そうなの?」
少し間があった。
綾人が清和を見た。清和が綾人を見た。
「……まじ?」
「うん」
「ねぇ」
彩夢が清和の袖を引いた。
「ん?」
「ありがとう」
「え」
「綾人のこと」
清和は返事をしなかった。
隣で綾人が「え」という顔をして、それからまた目を逸らした。その顔が、少し赤かった。
彩夢だけが、清和をまじまじと見ていた。




