捌話
「多すぎるわね」
風呂上がりの彩夢がため息をつき、離れにあるリビングのソファにもたれ掛かる。片手にはよく冷えた牛乳を持っている。湯上がりの顔は戦闘の時とは全然違う、ただの十八歳だった。
「穢れのこと? 確かに最近多いよね」
すでに風呂から上がりパジャマ姿の綾人が、台所から答える。
「昼間に対処しても、夜のうちに増加してる……夜が活性活動時間なのかな」
綾人は夕食の準備をしながら考える。今日の献立は麦ご飯と豚肉とエノキの炒め物、小松菜の煮浸しに大根の味噌汁だ。手慣れた手つきで味噌を溶く音が、静かな台所に響く。
不器用な姉の代わりに綾人が準備している。以前、姉に任せて電子レンジが爆発して以来、任せていない。
「でも、夜に対処しようとするのは止められてるし」
彩夢が牛乳を一口飲んでから、小さくうなずいた。
那岐家の両親は霊力を持たない。
現在那岐家で霊力を保有しているのは彩夢と綾人、そして師匠である祖母のみだ。
今の那岐家自体は霊術師の家系というよりも『伝統ある良家』という形になっている。
父も母も見えざるものにある程度の理解はあり、二人の活動には肯定的ではあるが——
「少なくとも未成年のうちは夜間活動はできないね」
「ええ。この前コッソリ抜け出して、帰ってきた時、玄関で待ち構えられてた時のあの剣幕……怖かったわ」
彩夢が珍しく遠い目をした。
「一回昼間のうちに二人手分けして、一気にやっつけちゃう?」
「この頃、穢れの力も増してきてる。少し不安だわ。それに、やり過ぎて『必要な』穢れも消してしまうとまずい」
「ある程度、人に取り憑く穢れを残してないと、却ってそこに穢れが寄ってくる。均衡を保たないとなんだよね、俺はそれを見抜けないし……」
炒め物の油がはじける音がした。
「私にも難しいことよ。それこそおばあちゃんくらい見極める力をつけないと。他の同業者にも応援を頼めたらいいのだけど」
「おばあちゃんも『おばあちゃんの友達』もそこそこのお年だしね」
「ああ〜、どっかに成年済み体力のある凄腕の霊術師とかいないかなぁ………あ」
「あ」
「「ああ!!」」
〜〜〜〜
「ようこそいらっしゃいましたぁ」
「どうしたの、僕とフワにお願いがあるって」
「まま、家で最高級のお茶ですよ」
「ど、どうも」
「チビにはパンケーキスクイーズな」
「わーい!」
彩夢は湯呑みを丁寧に置きながら、清和の向かいに座った。さっきまでの甲斐甲斐しいもてなしモードから、すっと表情が変わる。
「単刀直入に言うわ。この街の穢れが増えてる。私と綾人だけでは対処が追いつかなくなってきた」
「穢れ、というのは」
「霊的な汚染よ。放置すると怪異や悪霊が集まりやすくなる。ある程度は自然なものだけど、最近の増え方が異常なの」
清和はフワを見た。フワはパンケーキスクイーズを眺めながら、静かに頷いた。
「俺も感じてた。じわじわ、濃くなってる」
「清和さんには霊力がある。フワ殿もいる。綾人には術式がある。三人で昼間に動いてもらえれば、かなり助かる」
「……俺、一応会社員なんですが」
「そこは心配しなくていいわよ」
彩夢は少しだけ笑った。その笑い方が、清和には少しだけ怖かった。
〜〜〜〜
「え、一ヶ月以上の休暇!?」
翌日、清和が恐る恐る総務に確認すると、あっさりと答えが返ってきた。
「そうですよ、巫部さん。年度末までに消化してもらわないと、また繰越の申請が……去年も一昨年も、かなり溜まってますよね」
「……そうですか」
「社長の伊東さんも、むしろ積極的に有給消化してほしいって言ってましたよ。今の時期、業務的にも落ち着いてますし」
こうして清和は、入社以来最長の休暇に入ることになった。
(ブラック企業の唯一の遺産だ)
と思いながら、清和は会社を出た。
〜〜〜〜
「綾人」
彩夢が弟を正面から見た。
綾人が背筋を伸ばす。
「清和さんの護衛と、フワ殿の監視。あなたに任せるわ」
「……わかった」
「清和さんはまだ霊力の扱いが安定してない。フワ殿は——」
彩夢は少し間を置いた。
「あの子は悪くないわ。でも、何があるか分からない。何かあればすぐに連絡して」
「姉ちゃん、チビのこと何か知ってるの?」
「……まだ何も」
その間が、かすかに長かった。
綾人はそれを聞いてしまったが、聞かなかったことにした。
「わかった。ちゃんとやる」
「頼んだわよ、綾人」
〜〜〜〜
最初の調査は、穏やかな晴れの日だった。
三人は街を歩いた。
フワが清和の少し前を浮かんでいる。時折足を止め、何かを探るように周囲を見回す。
「あの路地、少し溜まってる」
「どのくらい?」
「大したことない。通り過ぎる人がイライラしやすくなるくらい」
「除去する?」
「しといた方がいいね」
綾人が路地に向かい、小さな声で術式を唱える。時間にして数秒。目に見える変化は何もない。でも、フワが「うん、消えた」と言った。
「あの、これ確認できないんだが、僕。この前は見えたのに」
「霊力がもう少し安定してくれば分かるようになりますよ、清さん」
「そう、なの?」
「焦らなくていいです」
フワは二人の少し前を浮かんで、時々振り返ってにこにこした。
「あ、あそこも」
「多いのか?」
「まあまあ。でも均衡が崩れるほどじゃないな」
「消さなくていいってこと?」
「あのくらいは残しといた方がいい。触るとかえってバランスが崩れる」
「……難しいんだな、線引き」
「そうだよ、難しいの」
フワはあっけらかんと言った。
「でも清和は俺がいるから大丈夫」
「頼もしいな」
「うん」
〜〜〜〜
調査を続けるうちに、地図ができていった。
綾人が小さなノートに記録していく。
清和が地図アプリで位置を確認する。フワが感知した場所に印をつけていく。
数日経ったある昼下がり、三人が公園のベンチに座っていた。フワがスクイーズを握りながら地図をのぞきこんでいる。
「……なんか偏ってないか?」
清和が画面を指差した。
印が集まっているのは商店街の周辺、住宅地の一角、そして——
「なんだろ、この辺って何かあるか?」
「……これ、僕の会社のある場所だな」
沈黙があった。
フワが、スクイーズを握る手を止めた。
(僕の職場、霊……まさか)
「フワ」
「……うん」
「前から気づいてたか」
フワはしばらく答えなかった。
「近づくと、なんか……」
「なんか?」
「おじさんの匂いがする」
清和は画面から目を離した。公園の木が風に揺れている。遠くで子供の声がした。普通の、昼の街の音がしていた。
「そうか」
「うん」
綾人が清和を見た。清和は地図を見たまま動かなかった。
「清さん?」
「連絡する、彩夢さんに」
「……はい」
清和はスマホを取り出した。画面に『那岐彩夢』の名前を出しながら、少しだけ手が止まった。
(やっぱり、終わってなかった)
ため息を一つついてから、電話をかけた。




