玖話
「……やっぱり、ここだな」
ビルの前に立って、清和は言った。
穢れの濃さは数日前の調査で確認していた。近づくだけで、手の中の数珠がわずかに熱を持つ。フワが「前に来た時より増えてる」とぼそりと言った。普段のフワとは少し違う、抑えたような声だった。
「清さん、中で誰かに聞かれたら適当にごまかしてね」
「ええ! 急に言われても……職場見学とかか?」
「『隠』でこっそり行けばいいじゃん」
「「それだ!」」
「はあ、行くわよ」
彩夢が先頭に立った。
三人が自動ドアをくぐり、中に入った。
————その瞬間だった。
音が、切れた。
「っ!! まずったわ! アンタ達!」
ロビーのアナウンス。空調の振動。遠くのエレベーター。受付の声。全部が、スイッチを切ったように消えた。
一瞬で。まるで世界に栓をしたように、音という音が、跡形もなくなった。
「フワ」
振り返った清和の手が、空を切った。
フワがいない。
いや、いる。
ガラスの向こうに、外に——フワが自動ドアの前に立ったまま、こちらを見ていた。ガラス一枚が、まるで別の世界の境界になっていた。向こう側の光の色が、こちらとわずかに違う。
「清和——!」
フワの声が聞こえた。遠い。壁の向こうから届くような、薄い声だった。
次の瞬間、ロビーの床が黒くなった。
〜〜〜〜
「あっちが常世、ここが現世に……」
フワはガラスに手を当てた。手が通らない。押しても、叩いても、何も起きない。
中は見える。清和が振り返った顔が見えた。綾人と彩夢が何かを言っている。でも声は届かない。
この前の不完全な誘い込みではない、完全に常世へ取り込まれてしまっている。
「くそ、最悪なタイミング——」
フワは下唇を噛んだ。
さっきまで三人の気配がはっきり感じられたのに、今は薄い。糸が引き伸ばされたような感覚。繋がってはいる。でも遠い。布一枚を隔てた向こう側の体温みたいな、あるのに触れられない感じ。
(清和)
呼んでみた。
応答があった。かすかに、でも確かに。清和にも自身に眠る霊力を感覚的に引き出す術が少しずつ身についている。このくらいの共鳴なら響かせられる。
(ちゃんとそっち行くから、いい子で待ってて)
届いたかどうかはわからなかった。でも返事の代わりに、糸が一度だけ短く揺れた気がした。
〜〜〜〜
常世のロビーは薄暗かった。
蛍光灯はある。でも光が届かない。正確には光はあるのに、明るくならない。床の模様は見えるが、色が抜けている。受付のデスクがある。椅子がある。全部あるべき場所にある。でも誰もいない。音がない。色がない。空気が膜を張ったように重い。
「一階ね。オフィスは四階なのよね?」
彩夢が言った。
「エレベーターは使えないです。この状態だと」
「階段から行くわ。行くわよ」
「……ああ」
清和は少しだけ振り返った。さっきまでフワがいたはずの場所を、見た。
そこには何もなかった。ガラスの向こうは、真っ黒だ。
「清和さん」
「……行こう」
〜〜〜〜
一階の廊下に出ると、影が来た。
床から、染み出るように形になる。輪郭がぼやけていて、どこかに目があるわけでも、口があるわけでもない。でも、こちらを向いている。明確に、向かってきた。
綾人が前に出た。数珠を握り、術式を唱える。
『格界』(こっかい)
廊下の床と壁に、格子状に光の線が走った。影がその線に触れた瞬間、音もなく爆ぜて散った。
清和は数珠を手の中で握った。さっきよりはっきり熱を感じた。
「清さんは後ろ。影が抜けてきたら弾いてください」
「わかった」
でも次が来る。さらに次も来る。廊下の奥から、続々と。
「多いわね、ここ」
『破邪』(はじゃ)
彩夢が冷静に言いながら、両手の術式を重ねる。二体、三体、同時に処理した。光が弾けて影が散る。残り香のように薄い黒い煙が、すぐに消えた。
「前回の学校より密度が高い」
「核もそれだけ強いのかもしれないわ」
パチン。
清和の数珠が一体を弾いた。
「できた」
「そこそこできるじゃないですか、清さん」
「ありがとう、でも、限界は近い気がするが」
「霊力の効率がすこぶる悪いのよ。アリ一匹に核爆弾使うもん、もっと節約して」
「そう言われても」
「十分です、頑張って」
〜〜〜〜
二階。
三階。
踊り場のたびに影が待ち構えていた。
綾人が中心で祓い、彩夢がカバーする。清和はひたすら数珠で影を弾き、綾人が術式に集中できる時間を稼ぐ。
一階から始まったばかりの三人の連携が、階を上がるごとに少しずつ形になっていった。
「次、左から」
「わかった」
「清さん、後ろ」
「っ——、よし」
言葉が少なくなった。
それが悪いことではないと、清和はなんとなく思った。
〜〜〜〜
四階。
自分が毎日使っていたはずの廊下だった。でも、薄暗い常世の光の中では、別の場所に見えた。コピー機の前を通る。棚の並びを見る。見慣れた場所が、見知らぬ場所の仮装をしている。自分の席の場所は分かる。でも今は、そこに行きたいとは思えなかった。
「……ここだ、俺の」
「オフィス?」
「ああ」
ドアを開けた。
誰かいた。
デスクの一つに、伊東課長、いや、社長が座っていた。
「ああ、巫部くん……!」
「え!」
「いや、一体なんなんですか、これは。急に暗くなって、外に出ようとしたら出られなくて——」
「伊東さん」
清和が言いかけた、その横で。
「嘘ね」
彩夢が静かに言った。
「え?」
伊東が顔を上げた。
「口先だけのパニックのふりがうまいこと。あなた、汗ひとつかいていない。さっきから優雅に椅子に座ってる——本当に状況を理解できていない人間の行動じゃない」
伊東の表情が、わずかに変わった。
「な、なんですか、この子は」
「……それに」
彩夢は伊東を真っ直ぐに見た。
「学校の文化祭で感じた呪術の気配。あれと同じものが、あなたから出てる。あなたのそう、ジャケットの左ポケットから」
部屋が、静かになった。
伊東はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「やはり、那岐の子には誤魔化せませんか」
声が変わった。さっきまでの困惑した中間管理職の声ではない。落ち着いた、どこか別の何かを持った声だった。
「巫部くん」
伊東が清和を見た。
「君は、よく頑張ってくれましたね」
「……は」
「あの山に酒井を連れて行って、神墜しをしてくれた」
「かみ、おとし?」
その単語が、頭の中に沈んでいく。あの夜。あの山道。あの音。
綾人の数珠がかちりと音を立てた。
〜〜〜〜
「あっちがまずい」
フワは呟いた。
清和との糸がさっきより揺れている。
境界の壁に手を当てたまま、フワは集中した。常世と現世の境。普通は越えられない。
でも——
霊力を、指先に集める。今まで外から変化を及ぼしていたのとは違う。壁そのものに、穴を開けようとしている。
『裂け——』
大きな影が、降ってきた。
音もなく、気配もなく。ただ、突然そこにあった。
「っ!」
フワは飛び退いた。
「今度はなに!」
地面に黒いものが広がる。人の形をしていた。でも、人じゃない。人だったもの、が正しい。輪郭がぼやけていて、その中に何かが詰まっている。密度が違う。今まで相手にしてきた穢れや影とは、まるで比べ物にならない重さがあった。
声がした。
「お、ま、え、が……くに、した……」
カタコトだった。言葉の形をしているが、音が崩れている。それでも意味は伝わってきた。
「お前が、俺を……」
フワは、その輪郭の中心を見た。
以前の小太りの体型は、今やただの影のシルエットに溶けていた。でも、顔の形は——
「ああ、やっぱりあの時のおじさんだね」
フワが、ゆっくりと言った。
「随分と嫌なものが増してる、付け足されたね」
「うる、さい……う、る、さい……」
酒井の怨霊が、じりじりと近づいてくる。黒い地面が広がるように、その足元から。
「その力をくれた人のお名前言える?」
「うる……うるさい……お前が……」
フワは宙に浮いたまま、酒井を見ていた。
怖くはなかった。でも、清和の糸が妙に揺れているのが気になった。早くしなければ。
「この前みたいに優しくはしてあげないよ」
『光雷』(こうらい)
〜〜〜〜
〜〜〜〜
「っ!! 両手を挙げて投降なさい!」
「巫部くん、貴方のおかげでアレは力の大半を失っている。弱らせるにはピッタリですよ」
「アレ? フワのことか?! 伊東さん貴方アイツになにを?……いや、違う」
清和は、一歩引いた。
「アンタは誰だ?」
確かに、フワの力で酒井の存在はこの世界から消えている。
だが——
それなのにこの人は酒井を語っている。
それだけじゃ、ない
伊東という社員、いなかったはずだ。なぜ前課長などと思い込んでいた?
「おや、君もなかなかどうして、ふふ」
「っ……! 頭が痛い」
「清さん聞いたらダメだ!」
「さっさと投降なさい!」
「力づくでなさればいいのでは?」
「ぐっ!」
「できませんよね。霊力は霊や呪術に有害ですが人には無害だ」
「それでもこっちは三人よ、数の利ならこちらが……」
「足止めは十分ですね」
男が、ポケットに手を入れた。
「お互い練習の成果を見せてあげましょう、酒井くん」
『交代ですよ』
男が静かに言った。
〜〜〜〜
四方八方から、光の線が収束した。
霊力を圧縮して放つ、雷の形をした一撃。無数の軌跡が酒井の輪郭に叩きこまれる。
しかし。
「っ! 適応した?!」
闇がその攻撃を包んだ。雷が、染み込むように吸収されていく。さっきまで有効だったはずの力が、通らない。
「なら次は! ぐ」
フワが次の術を展開しようとした時だった。
清和との糸が、急激に揺れた。
「清和?」
中で何かが起きた。清和が動揺している。それだけでわかる。
その一瞬の隙に——
「ガッ」
闇が鞭のように伸び、フワの小さな身体に叩きつけられた。
「オマエ、ガラ、ケシテ、シマエバ」
「ソウスレバ、アイツ、クルシメラレル」
「やめてよ」
フワはよろけながらも浮き直した。
「もう、清和を……あの子達の子を……」
その時だった。
「マテ、オレ、ハ……」
酒井の輪郭が、揺れた。
そして——消えた。
影の形が、霧が晴れるように消え去った。
その場所に、ひとりの男が立っていた。
立っていた、というより、そこにいた。気配もなく、足音もなく。いつからそこにいたのかも分からない。スーツ姿の、年齢の読めない男だった。
「お初にお目にかかります、大山事無之尊」
「……」
フワは動かなかった。
男の声は穏やかだった。礼儀正しかった。それが、逆に異質だった。酒井の怨霊の混沌とした怒りとは全く違う。計算された、静けさだった。
「僕の名前を知ってるなんて物知りさんだね。でも今その名前は正しくないよ、清和が切り替えくれたんだ」
「ええ、彼からお聞きしましたよ。それにしても『フワ』ですか。何も知らないにしても、随分と恐れ多い名前をつけたものです……」
「そう? 僕は結構気に入ってるけど」
「しかし、いやそれにしてもフワですか、ふふ」
「なにさ、悪いんだけど君にはあまり呼ばれたくないんだけど」
「いや、すみませんね。何せ神名と正反対ではないですか、貴方が司っているのは——」
「だまりなよ」
フワの声が、低くなった。
「僕はすぐに清和の元に行きたいんだ、あの子を死なせる訳にいかない。さっさとこの呪術を解いて」
「そうはいきません」
「俺はお願いしてる訳じゃない」
「おや」
男が、胸を押さえた。膝をついた。
「障というやつですか。随分と小器用ですね」
「核の代わりに君の命を散らしてもいいんだよ」
「ふは、それは無理でしょう。呪術は霊術とは異なり調整が効かない。その効果には零か百しかありません。私が散ろうとこの檻は残る」
「……」
フワは黙った。
「君は、君は何がしたいの?ここまでしてなにを……」
「私はね」
男が、ゆっくりと顔を上げた。
「神になりたいんですよ」
「だから——現代神である貴方が必要なのです!!」
そう言って男はジャケットのポケットからビー玉を取り出した。それは怪しく紫に光っていた。小さな、きれいな球体。でもその中に何かが詰まっている。見ていると、目が引っ張られる。
(これは、まずい!)
本能的に危険を感じた。退避の体制をとる。
〜〜〜〜
「おっさんが別のおっさんに変わった?」
綾人が呆然と言った。
オフィスの中で伊東の気配が消えた。
代わりに——外から、何かが来た。
「ひっ、ああ、あああ」
「清さん!」
「綾人、清和さんを守りなさい」
彩夢はその来たモノを見て、小さくため息をついた。
「随分と、力を借りたものね。でも」
その目が、光った。
「借り物の力に負けるほど、私は弛んでないわよ」




