拾話
オフィスの中は、狭かった。
パソコンの並ぶデスク、棚、コピー機の角、廊下との仕切り壁——いつもならそれほどに窮屈に感じたことのない場所が、今は余計に狭い。
正面に、巨大な闇。
この場所に似つかわしくない。暗いオフィスの中でさらに光を吸い込む、人の形をしたそれが、デスクの列をまたぐように広がっている。
彩夢は一歩引いた。
『破邪』
術式が弾ける。酒井の黒い輪郭の端が削れた。でも再生する。さっきより速く。削れた端が、溶けた蝋のように形を戻していく。
(しぶといわね)
「それでどうするの?」
彩夢は構えを保ったまま言った。酒井の怨霊は言葉を返さない。ただ、じりじりと距離を詰めてくる。
「ジャマ、ダ、ウセロ」
声だった。
言葉の形をしている。でも、人の声ではない。音がずれていて、速度が一定じゃない。
怨霊が無理やり言語を通そうとしているような、不快な響きがある。それでも、かつて毎日放っていた声の名残が、どこかに残っていた。
「あなたを操ってる人間は、もうここにいないわよ。分かってる?」
反応はなかった。
廊下側から、術式の弾ける音がした。
『格界!』
少し離れたところで、綾人が動いていた。清和を狙う影に対応している。廊下との仕切り近く、清和の体を守るように立ち、格子状の光を展開させていた。
「っ!」
「あくまで狙いはあの人ってことね」
綾夢が言った。
影の動きを見ていて分かった——酒井の怨霊は彩夢を主な標的にしているが、飛び出す影たちはことごとく清和の方向に向かっていた。
呪術によって強化された怨霊は、もう指示を必要としていない。本能的な憎しみだけで動いている。それが、かえってやっかいだった。理性のある敵なら交渉もできる。でも感情の残骸だけになったものは、止まる理由がない。
「ならもう少し付き合ってもらうわ」
『縛華』(ばっか)
鋭利な棘のついた光の蔓が伸びて、酒井の輪郭の一部を掴んだ。動きが鈍る。そこへ追撃を重ねる。
「『破邪』——『破邪』——」
連続で打ち込む。削れる。でも足りない。打つたびに、少し再生が追いついてくる。
『破邪!』
〜〜〜〜
「ち、ちがう、僕は、僕が悪いんじゃない、社長が勝手に、勝手にぃ」
「清さん、落ち着いてください」
綾人が、結界の中で清和の腕を掴んでいた。
伊東の言葉が頭の中でぐるぐる回っている。神落とし。あの山に連れて行って。よく頑張ってくれた——
まるで、全部最初から計画の中にあったみたいな、そういう言い方で。あの夜は事故だった。はずだった。そのはずだった。自分は手を伸ばした。届かなかっただけだ。
その時、それとは別の嫌な感覚が増した、フワとの繋がりが先ほどよりも不安定になっている。
「ああ、う、………ああ!」
「フワが——フワがまずい、外で何か——」
「分かってます。でも今飛び出したら余計まずいです」
「でも——」
「清さん!」
綾人が珍しく声を上げた。
清和は、止まった。
綾人の目が、真っ直ぐにこちらを向いている。怒っているわけではない。でも、揺れていない。十六歳の目じゃない、と清和は思った。
「俺だって怖いです。姉ちゃんが一人で戦ってる、チビが現世で一人でいる」
「……」
「でも、俺たちが今できることは、ここを守ることです。清さんがいなくなったら、俺一人になる」
清和はもう一度、外の方角を見た。
糸が揺れている。フワの気配が遠い。でも、切れていない。ある。ちゃんとある。
「……わかった」
「チビは、強いですから」
綾人は、静かにそう言った。
清和には、綾人がそれを自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。二人でそれを信じることにした、という感じの言葉だった。
〜〜〜〜
「はぁ!」
「ガァー!」
彩夢の術と酒井の術がぶつかった。
音が変わった。
術式の弾ける音と、怨霊が拡散しようとする力の鈍い響きが混ざり合い、オフィスの空気がひずむ。窓ガラスが細かく震えた。
「っ!!」
彩夢が叫んだ瞬間、空間に裂け目が走った。
まず光が漏れた。次に音が混ざった。現世と常世の音が、ぐちゃぐちゃに重なる。遠くの車のクラクション、子供の声、自動ドアの音——全部が一瞬だけ聞こえて、また消えた。
裂け目は、しかしその後も残った。
壁のひびのような、見えているのに触れられない切れ目が、中空に浮かんでいる。向こう側の光の色が、こちらと少し違う。
「まずいわ、これは」
彩夢が低く言った。
「戦闘の余波で穴が空いた。現世に影響が出る前に——」
その時。
伊東の声が、どこからともなく聞こえた。
「なるほど、今日はここまでのようですね」
「……!」
「ご安心を。現世を巻き込む気はありません。それでは、また」
酒井の怨霊が、ひっと縮んだ。まるで首根っこを掴まれたように、引き戻されていく。そのまま、裂け目の向こうに——消えた。
沈黙があった。
彩夢はしばらく構えを保ったまま、動かなかった。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……逃げたわ」
(これだけの力を持たせて撤退、か。やっかいな手を打つわね)
彩夢の額に汗が一筋流れた。アドレナリンが引いていく感覚の中で、ようやくそれに気づいた。
〜〜〜〜
裂け目が、できた。
フワはそれを待っていた。
ビー玉に力を吸い取られる最中、フワはずっと力を逃がすことに注力していた。全力で吸われるのに任せたら、もう動けなくなる。
だから少しずつ、流れていく力を抑えながら、裂け目が開くのを待っていた。指先を動かすたびに削られていく感覚がある。水が抜けていくような感じ。それでも手放さないようにした。
体が重い。さっきの鞭の一撃の痛みが残っている。それ以上に、霊力が削られている。あの男に——最初からどこかで少しずつ、吸われていた。
でも清和の糸は分かる。向こうにいる。
向こうで——
裂け目が、ぶわりと広がった。
「——っ」
その瞬間、引かれた。
選択肢はなかった。考える暇もなかった。『契り』の制約が、紐を引くように、フワを裂け目の方向へ——清和のいる場所へ——引き込んだ。
気づいたら中にいた。
清和の体の中。今まで交渉して入ったのとは違う、乱暴な感じがした。でも清和が「来ていい」と言ったことは分かった。契りを通じて。言葉ではなく、もっと前の層で。
(清和)
(ここにいる)
ぼんやりとした返事があった。疲れているのか、声の輪郭が柔らかい。
(ちょっとだけ、借りるから。いい子で寝てて)
(……うん)
〜〜〜〜
清和の体が、ふらりと揺れた。
「清さん!?」
「大丈夫」
返ってきた声が、少し違った。
綾人は目を細めた。
「……チビか?」
「うん。契りで引っ張られた。すごいびっくりした」
「フワ殿、大丈夫なの。さっき外に——」
「あんまりよくない。清和の霊力をかなり借りてる。ごめん」
フワは——清和の体を使いながら——床の上にゆっくりと座り込んだ。彩夢が駆け込んできて、一度だけ目を合わせた。二人の間で何かが確認された。
「わかった。退くわよ」
〜〜〜〜
問題は、現世に戻った瞬間に起きた。
常世が解かれたことで場所の元
——清和の職場のオフィス内に戻ってきた。
「巫部さん?」
総務の女性が目を丸くした。
「子供?なんだかぼろぼろね」
別の同僚が遠くから言った。
人の視線が刺さった。休暇中のはずの清和がいる。彩夢は戦闘後で衣服が乱れている。綾人は制服のまま他人の職場のど真ん中にいる。三人を合わせても、どこから説明すればいいか分からない場面だった。
「ちょっとまずいわね」
「綾人、お願い」
「ちょっ、待って——今やる!」
『隠』
術式が薄く周囲を包んだ。人々の視線が、すっとずれた。見えているのに、見ていない。さっきまで「巫部さん?」と声を上げていた総務の女性が、首を傾けてから自分のデスクに戻っていく。何を見ていたのか分からなくなったような顔で。
「間に合った……」
綾人が額に手を当てた。
「ぎりぎり過ぎるわよ」
「怒らないでよ、余裕なかったの!」
〜〜〜〜
清和のアパートに戻ったのは、夕方になる前だった。
フワが——清和の体を使って——玄関の鍵を開ける。数珠を外して棚に置く。靴を脱ぐ。一つ一つの動作が、清和のそれと少し違う。慣れているようで、細かいところでは慣れていない。
彩夢と綾人が後に続いて入った。
「手伝うよ」
綾人が言い、台所に向かった。
フワがやかんを火にかけた。綾人がそれを見て茶葉を探して、缶が見当たらなくて、引き出しを開けたり閉めたりした。
「三番目の棚」
フワが言った。
「あ、ありがと」
お湯が沸く音が、部屋に響いた。今日初めて、ほっとする音だった。
彩夢がソファに座り、靴下を脱いで畳に足を投げ出した。綾人がその隣に行儀よく座る。フワは台所で三つ分のお茶を入れ、そのままソファの前の床に座り込んだ。
「清和さんは今、どういう状態なの?」
彩夢が聞いた。
「寝てる。疲れてたし、ちょっと無理させたし」
「あなたは?」
「おれも、それなりに」
フワは湯呑みを両手で包んだ。温かかった。
「伊東って人は、まだ計画を続ける気だと思う?」
「そうね、間違いなく」
彩夢が天井を見上げた。
「今日分かったのは、あの酒井って怨霊を制御できる呪術師がいること、その人間が清和さんの職場に長く潜り込んでいたこと、そして——あなたについて何か知っているということ」
「うん」
「何を知ってるの?」
沈黙があった。
「……今は清和に聞かせたくない」
「そう」
彩夢はそれ以上聞かなかった。
綾人はお茶をすすりながら、フワを見ていた。言いたいことは色々ありそうだったが、今日はそれを飲み込んでいた。
「とりあえず」
フワが言った。
「今日は休もう。ここは俺の領域だから、何も来ない。泊まりなよ」
「お泊まりだ!」
「ここはあなたの家じゃないでしょ」
「フワ、いいよね」
「清和も起きたら怒らないよ、たぶん」
「たぶん、って言うな」
三人の会話が、静かな部屋に散っていった。
お湯が、やかんの中でまだ少し音を立てていた。
〜〜〜〜
フワが、清和の体でソファに横になった。
少しして、体の中で清和の意識がゆっくりと沈んでいくのを感じた。眠りが深くなっている。あれだけのことがあって、あれだけ消耗して、それでも最後まで自分なりに動こうとしていた人間だ。今夜くらいは、ゆっくりと休んでほしかった。
(ゆっくり寝てて)
霊力を少しだけ、清和の意識の方向に流した。安心してね、という気持ちで。
ソファの上で、清和の体の呼吸が、ゆっくりと深くなっていった。
外の空が、夕色に変わっていく。
フワはしばらく天井を見ていた。
大山事無之尊。
その名前を呼んだ男のことを、思っていた。




