昔噺 Ⅱ
眠りの中で、清和は深くに落ちた。
自分の体のはずなのに、ふわふわした感覚がある。重力が半分になったような、頼りない浮遊感だった。普通の夢とは違う感触だった。
自分の記憶ではない。誰かの記憶の、ずっと奥に引き込まれていく感じがした。底のない水に、ゆっくりと沈んでいくような感覚。抗おうとしても、抗う手すら見つからない。
気づいたら、立っていた。
山だと、思う。
木々がざわめき、雑草の絨毯が敷かれている。足の下に何かある感じはあるが、踏んでいる感覚はない。地面を踏みしめる重みも、土の湿り気も、何も伝わってこない。時代が、分からなかった。
建物の形が古い。木と土と石でできた、今の清和には見慣れない造りの家が、山の斜面に沿って並んでいる。屋根は低く、軒先には何かを乾かすように植物の束が吊るされている。生活の匂いはするのに、清和の鼻には何も届かない。
しっかり観察してみようとしても、霧が低く立ち込めていて、世界がどこかぼんやりしている。輪郭が滲んで、遠くのものほど溶けていく。夢というより、記憶の底を覗いているような感覚だった。
でも、不思議と知っている山な気がした。
集落に向かって、歩いてみた。
〜〜〜〜
「さぁ!神の御言葉をお聞きなさい!」
集落には、人がいた。
集まっている。輪を作って、何かを囲むように。声が揃っている。子供の声が聞こえる。
でも歌のような祝詞のような、その両方に似た音が、霧の中に低く響いていた。声は一つに束ねられていて、誰か一人の意志ではなく、集団そのものの意志のように聞こえた。
清和は近づいた。
足音がしなかった。自分が通ると、草も揺れない。誰も振り返らない。自分がここにいることは、誰にも届いていない。透明な壁の向こうから覗いているような、そんな距離感だった。
「こちらにおわす方は、『調和』と『和合』を司る神子、◻️◻️であります!」
輪の中心に、子供がいた。
五歳か、六歳か。白い着物を着て、小さな体でまっすぐに座っている。周囲の大人たちに囲まれながら、動かない。頭を垂れている大人たちより、その子供の背中の方が、ずっと重たいものを乗せているように見えた。
重さに、慣れている背中だった。
(っ!)
清和は、その顔を見た瞬間に分かった。
黒い目だった。
でも、深淵のように光を吸い込む黒ではない。黒くともどこか光のある瞳だった。今のフワとは、少しだけ違う。
この子は、まだ生きている。頬に赤みがある。息をするたびに、小さな肩がわずかに上下している。それだけのことが、清和にはひどく尊いものに見えた。
「……フワ」
声は届かなかった。
〜〜〜〜
「これより、神降ろしを行います」
大人の一人が宣言した。
子供が祭壇の前に座らせられた。燈明が灯され、玉串が並べられる。子供は指示されるがままに榊を受け取り、神前に捧げた。見慣れているはずがないのに、動きに迷いがない。
何度も繰り返してきた証拠だった。小さな手が榊の枝を握る様は、遊びで真似ているようにも、覚え込まされた動作のようにも見えた。
鈴が、鳴った。
神楽鈴の細い音が、集落に響く。清和は聞いていた。それが祝詞の合図だと、なぜか分かった。子供が口を開く。
幼い声が、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。おそらく大人に教えられた言葉だ。舌がまだ回りきらない箇所もある。それでもその声は、確かにどこかへ届いていた。
やがて静寂が来た。
集落中の音が、一斉に止んだ。虫の声も、風の音も、まるで誰かが手で押さえたように消える。子供が、静かに何かを受け取った。体が少し重くなったように見えた。
目の焦点が、一瞬だけどこか遠くを見た。それから子供は口を開き、大人たちに向かって言葉を伝えた。清和には聞こえなかったが、人々は頭を垂れた。何人かは、涙を流していた。
「御子様、こちらへ」
儀式が終わると、子供は大人に手を引かれて移動した。歩くたびに周囲が道を開ける。誰も触れない。誰も隣に並ばない。子供はその空白に慣れているように見えた。
慣れているのか、諦めているのか、清和には分からなかった。
少し離れたところに、子供が一人になる時間があった。
小さな縁側の端に座って、石を並べていた。石を置いては、崩して、また置く。大きいものを真ん中にして、周りに小さいのを並べたり、全部同じ大きさで列を作ったり。
誰も教えていない遊びを、一人でしている。話しかける相手もなく、見てくれる相手もなく、ただ石だけがそこにあった。
清和は近くに座ろうとした。
地面に触れなかった。膝を曲げても、何かに乗れない感覚がある。座ろうとするたびに、体がすっと沈んで、また元の高さに戻った。
(夢だから、か)
子供は気づかない。石を並べ続けている。
一羽の雀が、縁側の近くに降りてきた。子供が顔を上げた。雀を見た。
少しだけ——本当に少しだけ——顔が緩んだ。
その顔を見て、清和は思った。
あの顔だ。フワが「わーい」と言う時の、あの顔だ。何百年も前から、この子はこの顔をしていたのだと思うと、胸の奥が締め付けられた。
「神子様」
遠くから声がかかった。子供は顔を元に戻した。作られた無表情が、また戻ってきた。雀が飛んでいった。
「あ、あのね、おかぁ…」
近づいてきたのは、端正な顔立ちの女だった。子供の手を引き、子供の目線に合わせてかがみながら、静かに言った。
「私は貴方の審神者でございます」
女の顔は、穏やかだった。でも、その穏やかさは——どこか、無理に作られているような。口元は笑っているのに、目の奥が笑っていない。役目として微笑んでいる顔だった。
「はい…」
子供は頷いた。
はい、と言った顔が、清和にはずっと引っかかった。五歳の子供の顔ではなかった。覚えた答えを返す、そういう顔だった。
おかぁ、と言いかけた口が、別の言葉を選んだ顔だった。子供はもう、その言い直しに慣れているようだった。
〜〜〜〜
季節が変わる感覚があった。夢の中の時間が、早送りになっている。木々の緑が濃くなり、また薄れ、赤く色づいて、また芽吹く。その繰り返しが、瞬きの間に何度も過ぎていった。
ある日の夕暮れ、子供が庭の隅にいた。
若い女が来た。他の大人たちよりずっと若い。十代の、まだあどけない顔をした娘だった。周囲の大人が子供に話しかける時の、あの緊張した顔をしていない。ただ、しゃがんで、子供と目を合わせた。
「また石?」
「うん」
「妙に上手くなっちゃって」
「……うん」
子供が、少しだけ胸を張った。
それから娘は、周囲を一度見回して、低い声で言った。
「◻️◻️」
清和は、その瞬間に集中した。
聞こえた。確かに、聞こえた。でも夢のせいか、音の輪郭がぼやけていた。名前の形はある。でも、はっきりしない。耳の奥で像を結ぼうとするたびに、するりとほどけていく。
子供の顔が変わった。
「御子様」でも「神子様」でもなく呼ばれた瞬間の、その子の顔が。
緊張が溶けた。目が細くなった。体が、少しだけ前に傾いた。名前を呼ばれることが、その子には特別なことなのだと分かった。何百人の大人に囲まれていても、この一言だけが、この子をただの子供に戻していた。
「聞かれたら怒られるよ」
「大丈夫、大丈夫、誰もいないし」
娘はくすりと笑って、また立ち上がった。
「それに弟の名前を呼んで何が悪いのよ」
(フワのお姉さん、か)
清和は、娘の顔を見た。目元が子供に似ていた。気性が強そうな、でも笑うと柔らかくなる顔。姉弟というだけで、なぜかそれだけで安心した。
「夕飯ができましたよ、◻️◻️」
もう一度、聞こえた。
清和は、その音を覚えようとした。夢の中で、必死に。でも水の中の像みたいに、はっきりしない。名前があることは分かる。
でも、それ以上が届かない。何度聞いても、輪郭だけがそこにあって、中身がこぼれ落ちていくようだった。
子供が娘の後ろをついていくのを、清和は見ていた。
その時だけ、子供の歩き方が違った。少し速い。軽い。「御子様」として歩く時の、あの静かな歩き方ではない。裸足の足が、土を跳ねるように動いていた。
時が経った。
集落の空気が、変わった。
清和にははっきり見えた。笑顔が減っていく。声の種類が変わっていく。祈りの声に、別の何かが混ざり始める。
言葉の端に、疑いが滲んでいく。畑の作物の話をしていた大人たちが、いつの間にか声を潜めて何かを話すようになっていた。
子供は分かっていないようだった。
いつも通り石を並べ、いつも通り雀を見ている。でも、娘が来る回数が減った。来ても、長くいられなくなった。娘が去っていく後ろ姿を、子供はいつも同じ場所からじっと見送っていた。
ある夜、清和は眠れないまま集落を歩いた。夢の中で眠れないということが、おかしいとは思わなかった。
声がしていた。
大人たちの声。言い争いに似た、でもそれより重い何か。集落の奥の、清和には入れない場所から。声はくぐもっていて、内容までは分からない。でも、その響きだけで良くないことだと分かった。
子供の寝所の前に、清和は立った。
中にいる気配がした。子供は眠っているのか、起きているのか、分からない。
夜が、変わった。
足音が増えた。
走る音。扉が開く音。声が重なる音。怒鳴り声に似ているが、もっと別の何か。清和は走ったが、走れなかった。夢の中の体は、思うように動かない。
急ごうとするほど、遅くなる。
まるで水の中を進もうとしているようだった。
「神を語る不届きものがぁ!」
「やめてぇ!◻️◻️を殺さないで!お願い!!」
娘の声だった。
「不敬者を殺し、山にくべ贖わせろ!!」
「◻️◻️にげてぇー!お願い、がっ」
「黙れ!」
「元はと言えば貴様らの親が奴を神と偽り広めたのだろう!」
ガダン!
乱雑に扉が開かれる。
子供の声がした。
一度だけ。
「え……」
それきり、聞こえなくなった。
清和は止まった。
どうにもできないことを、知っていた。これは過去だ。すでに起きたことだ。自分がここにいるのは、見るためだけで、何もできない。分かっていても、足は勝手にその場所へ向かおうとしていた。
手を伸ばした。
全力で。
抱きしめてあげたかった。そのまま逃げてあげたかった。でも届かなかった。夢の中の手は、壁を通り抜けるだけだった。指先が空を切り、何度伸ばしても同じだった。
でも、その声が、頭の中に残った。
どうして、と——子供が言った。
五歳の子供が、最後に言った言葉が。
それだった
それから、山だった。
時間が飛んだ。
霧の中に、霊力の気配がある。人のものではない、大きな何かと混ざり合っていく感覚が、夢越しに清和にも伝わってくる。冷たくて、大きくて、逆らいようのない流れだった。
少年の魂がぐるぐると、漂っている。縛り付けられている。行き場をなくした光の粒のように、山の中を彷徨っていた。
『哀れな子よ』
声がした。山の奥から、古いものの声が。憐れみでも悲しみでもない、ただ事実として——哀れ、と言った。感情の温度がない、ただ観測しているだけの声だった。それでも、その一言だけが、少年の魂に触れた唯一の言葉だった。
そこで夢が途切れた。
〜〜〜〜
目が覚めた時、まだ暗かった。
夜明け前の、一番薄い時間だった。
清和は——正確にはフワの入った自分の体は——ソファの上で眠っている。
隣の部屋から、彩夢と綾人の気配がする。みんなまだ眠っている。家の中は静かで、時計の秒針の音さえ聞こえそうだった。
清和の意識は、ただそこに浮かんでいた。
動かなかった。
どれだけそうしていたか、分からない。窓の向こうの空が、ほんの少しずつ明るくなっていくのを、ただ見ていた。夜と朝の境目の、あの薄い青の時間が、いつまでも続いているように感じられた。
自分の手を見た。
フワが借りている手だ。人の大きさの、普通の大人の手。
子供が、石を並べていた手のことを、思った。あんなに小さかった手が、こんなに大きくなるまでの時間を、あの子はどこで過ごしていたのだろう。
神子様、と呼ばれるたびに閉じていった顔のことを、思った。
おかぁ、と呼びかけて——そうじゃない、と返された時の、「はい」の声のことを。
名前を呼ばれた一瞬だけ、緩んだ顔のことを。
清和は長いこと、何も言わなかった。
言葉にならなかった。
ただ、何かが静かに決まったような気がした。
決意という大げさなものでもない。ただ、当たり前のこととして——もうこれ以上、あの子を一人にしない。
そう思った。
外の空が、白み始めていた。




