拾壱話
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
「おはようございます、清さん」
綾人が台所から声をかけながら、トースターに食パンを入れた。昨夜からそのままの制服で、手際よく朝食を並べている。
彩夢はすでにソファに座り、両手を合わせて朝食に取り掛かる構えをしていた。着替えは持っていなかったはずなのに、子綺麗にどこか堂々としている。
「……どこからそのパン出てきたの」
「コンビニ。早起きしたので」
「ありがたいけど、お金払うよ」
「いいですよ、姉ちゃんが食べたいって言うんで」
彩夢は特に悪びれない。昨日あれだけのことがあったのに、朝の食欲には一切影響がないらしかった。
清和の体がソファから起き上がる。
「おはよう、彩夢」
「おはよ、坊や。もう少し清和さんのフリを研究しなさいよ」
「難しいんだよ」
〜〜〜〜
清和の自宅であるこのアパートは、フワとの『契り』によって、フワの領域の一つになっている。本来ならここにいる間は実体を保てるはずだった。
でも昨日、伊東に霊力を大きく吸われたことで、今は清和の体を借りていなければ安定できないらしかった。体を貸している間、フワの声は内側から響く感じで伝わってくる。
朝食の途中だった。
「思い出した」
清和がふと呟いた。
部屋では綾人が目玉焼きを皿に乗せ、彩夢がそれに手を伸ばしながら「醤油は?」と聞いていた。
(どうしたの?清和)
体の中で霊力の回復をしているフワが聞いてきた。
「昨日の呪術師なんだけど、久田さんだ」
「「誰ですか/なのよ」」
綾人と彩夢が同時に言った。
「酒井社長がああなる前の話なんだけど」
清和は箸を置いた。
「社長と一緒に久田工房って取引先に行ってたんだ。家具メーカーで、老舗の工房で——そこの社長さんが、あの呪術師だった。伊東って名乗ってたけど、久田さんだ」
オフィスで伊東と話していたときの違和感はコレだった。声が、どこかで聞いたことがあると思っていた。でも直接には結びついていなかった。
あの工房で一度しか会っていない、それも緊張した商談の場で——だから気づくまでに時間がかかった。
「その時、フワに会ったんだよな。あの山で」
(清和)
フワの声が、少し変わった。
(その工房って、山の中にあった?それとも外?)
「山頂だが」
(……)
間があった。
「巫部さん」
綾夢が静かに言った。
「フワ殿のいた山のことですよね」
「ああ、確か、延縁山だったかな」
「っ!」
綾人の手が止まった。
「そこって……」
(清和)
(僕のいた山には建物なんてなかったよ)
「へ」
「延縁山は禁足地ですよ」
綾人が、今までと少し違う声で言った。低く、確かめるような声だった。
「その山は禁足地、入ることすら難しい。普通の人間には、まず近づけない場所です」
テーブルの上に、沈黙が落ちた。
彩夢の手が醤油を取る途中で止まっていた。
「……清さんたちはどうやって行ったんですか」
「取引先から地図を送ってもらって、ふつうに車で行って」
「……」
「山の麓で車を止めて、十五分くらい歩いて、看板があって」
清和は、その光景を思い出しながら言った。あの夜は嫌な記憶しかないが、道は普通だった。山道ではあったが、歩けた。霧もなく、引き返せなくなったわけでもなく——ただ、社長が煩くて、自分が憂鬱で、そういう普通の夜だった。
「普通に、行けたけど」
「それが普通じゃないんですよ」
綾人の顔が、少し青い。
「延縁山は、三百年以上前から禁足地に指定されてる山です。うちの記録にもある。かつて大きな霊的な事件が起きて、立ち入りを禁じた。それからずっと——何かがいる、って記録が残ってる」
ーーー三百年前の大きな霊的事件?
(……何かじゃなくて、僕だよ)
フワが静かに言った。清和の体の中から、穏やかな声で。
(僕が縛り付けられてた山だ。三百年以上前ってことは、たぶん合ってる)
彩夢が湯呑みを置いた。
「フワ殿、あなたそこにいた時、工房のことは知ってた?」
(知らなかった。建物なんてなかった。あの人は山に何かを作れたんだね)
「禁足地に踏み込んで、建物まで作った」
彩夢が、静かに言った。
「それだけの呪術を使えるということ。禁足地の結界を抜けるだけでなく、その中に拠点を作れる——普通の呪術師の話じゃないわ」
「それに」
綾人が続けた。
「清さんたちが普通に近づけたのも、道を呪術で誤魔化していたからでしょう。道があるように見せて、禁足地であることを気づかせないよう。実際に清さんたちが感じた違和感は、帰り道だけだったのよね?」
そう言われると、確かにそうだった。工房に向かう時は何もなかった。おかしくなったのは、帰りに道に迷ってからだ。
「あと」
清和が、もう一つのことを言いかけて、止まった。
伊東が言っていた台詞が、もう一度頭に戻ってくる。
ーーあの山に酒井を連れて行って、神落としをしてくれた。
「……神落としって、具体的にどういうことなんだ」
綾人が箸を持ったまま、フワの方を——正確には清和の顔を——向いた。
(山に縛り付けられた霊や神を、解き放つこと、かな)
フワが答えた。
(要するに、清和が僕を山から連れ出せるようにしてくれた。それが、あの人の目的だったってことだよね)
テーブルの上の朝食が、冷めていった。
「つまり」
彩夢が言った。
「あの男はずっと前から、フワ殿を山から解放することを計画していた。そのために久田工房なるものを作って、呪術で禁足地を誤魔化しながら、あなたたちを呼び込んで、酒井さんをあの山で死なせることで——フワを動けるようにした」
「チビが清さんと契りを結んだのも、もしかしたら」
綾人が言いかけて、止まった。
「計算の内だったのかもしれない」
誰も何も言わなかった。
(違う)
フワが言った。
(あれは、僕が決めたことだから)
静かな声だった。でも、きっぱりしていた。
(清和が誰かに利用されて困ってたから、助けたかった。それだけ)
「……フワ」
(うん)
彩夢が立ち上がった。
「食べながら話しましょう。冷めるわよ、目玉焼き」
彩夢が「ん」と綾人に早く醤油を渡すよう催促した。
綾人がゆっくりと醤油を彩夢に渡した。
清和はもう一度、自分の手を見た。フワが借りている手。
延縁山。久田工房。伊東。神落とし。
全部が、最初からつながっていた。
窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。
〜〜〜
「なぁ、フワ。気になったんだが」
「なぁに、清和」
顕現できるくらいには回復したフワが、清和の膝の上に座っていた。赤いTシャツに短パン、いつもの格好に戻っている。
台所では、綾人と彩夢が皿洗いをしていた。水の音と、たまに彩夢が綾人に文句をつける声がする。
「お前って神なんだよ、な」
フワが少し考えた。
「……役割的には、そうだね」
「役割的?」
「山に生まれた時、声が聞こえたんだ。『其方に山神の役割を与える』って。それから感覚的に霊力の使い方や、山神としてのルールが分かった」
「なんかよくわかんないな」
「なんかよくわかんないんだよ」
二人が同時に頷いた。
説明できないことを、説明しようとすると大抵こうなる。清和はフワの頭をぽんと触った。フワは特に抵抗しなかった。
「でも、声が聞こえてルールを知って、それで神様になったってこと?」
「そういう感じ、かな。自分でなろうとしたわけじゃないから、実感はあんまりないけど」
「あ、だけど神様ならもう、信仰してる人とかいるんじゃないか?その人たちなら何か……」
「やめた方がいいわよ」
台所から彩夢の声が飛んできた。皿洗いをしながら、ちゃんと聞いていたらしい。
「へ」
彩夢が振り返った。手が濡れている。
「下手に信仰を探って、フワ殿の性質が変わったら厄介よ」
「性質が変わるって」
「神は信仰によって在り方が変わる。人間に崇められて『山神』として強く認識されれば、今より山に縛られた形になるかもしれない。それは今の状態とは別のものになるってことよ」
フワが、少し静かになった。
「それに」
フワが言った。
「俺の神格は、前の山神のものを移された感じだと思う」
「前の、山神?」
「延縁山には、俺より前にも何かがいたと思う。山には神がいる場合が多い。俺が死んでその山に縛り付けられた時、その役割がそのまま俺に移ったんじゃないかな」
「つまり」
清和は少し考えた。
「お前が神様なのは、お前が選んだんじゃなくて、山がお前に役割を押しつけたみたいな?」
「うん。まぁ、そんな感じ」
フワは特に悲しそうでも、怒っているでもない顔でそう言った。
それが清和には、少し引っかかった。
百年以上前に、気づかないうちに役割を与えられて、気づかないうちに縛り付けられた。名前も自分では持てなくて、他の誰かの役割を担わされて——でもフワは今ここで、ぴんとした顔をして清和の膝に座っている。
「フワ」
「うん」
「フワって、今の名前気に入ってる?」
「うん、好きだよ。清和がつけてくれたから」
「そうか」
「なに、急に」
「別に」
清和はそれ以上言わなかった。
台所の水音が続いている。綾人が「姉ちゃん洗い方雑」と聞いて、彩夢が「うるさい、汚れが落ちたらいいのよ」と返す声がした。
「清和」
「ん」
「昨日はよく寝れた?」
清和は少し黙った。
「……おかげさまで」
「そっか」
フワも、それ以上は聞かなかった。
二人の間に、静かな時間があった。
水音と、食器が触れ合う音と、彩夢が文句をつける声と。その中で、清和はフワの頭に置いた手をそのままにしていた。
「なんで、俺に会った時に手伝う気になったんだ」
「言ったでしょ、困ってたから」
「でも、俺が困ってるの見て、なんで助けようって思った」
フワは少し考えてから、「さぁ」と言った。
「よくわかんないけど、なんか放っておけなかった。長い間一人でいたせいか、それとも別の理由か」
「別の理由?」
「うーん。なんかね、初めて会った気がしなかったんだよね、清和のこと」
清和は黙っていた。
フワは特に気にした様子もなく、膝の上でスクイーズをぷにぷに押している。以前もらった桃型のやつだ。
初めて会った気がしなかった。
「ていうかね、シンプルにうるさかった」
「あぁ」
清和は夢の中で見た光景を思い出した。縁側で石を並べていた子供のこと。そして、古い名前を呼んだ姉のこと。
言わなかった。
今はまだ、言わなくていいような気がした。
「まあ、理由はどうであれ」
清和が言った。
「助かったのは本当だから、ありがとうな」
フワがこちらを見上げた。
「……うん」
目が、少し細くなった。
「こっちこそ」
(前の山神がフワに役割を移したならその山神は……)




