拾弍話
皿洗いが終わって、彩夢がソファに戻ってきた。
「一つ聞いていいかしら、巫部さん」
「なんですか」
「あなたの家、昔は別の名前だったんじゃない?」
清和は少し考えた。
「……知らないよ、そんな何代も前のこと」
「そう」
「ああ、ただ」
清和は思い出したように呟いた。
「うちの家系、女系が多くて、長女は嫁ぐんじゃなくて婿に来てもらってたらしいな。うちも母さんも、婆さんも姉妹しかいなかったし、僕も上に姉が二人いる」
「そう」
彩夢は湯呑みを両手で包んだまま、フワを見た。フワは清和の膝から床に移動して、桃型のスクイーズをぷにぷにしている。
「フワ殿、伺ってもいい?」
「うん」
「清和さんの血筋に、覚えはある?」
フワの手が、止まった。
部屋が静かになった。台所の水栓が、かすかに滴る音だけがある。
「……これはお二人に聞いた方がいいかもしれないけど」
彩夢が少し間を置いた。
「神田という苗字に聞き覚えはない?」
「かんだ……?」
綾人が目を細めた。
(どこかで見たような、おばあちゃんの家の……いや、もっと最近……)
「……」
「フワ」
清和が聞いた。
「お前、何か知ってるか」
フワはしばらく黙っていた。スクイーズを握ったまま、動かなかった。
「うん」
「うん、て」
「俺が初めて出会った巫女、巫部伽耶」
「あの子が、清和につながる家系の先祖だと思う。血筋的に」
「……は」
「清和の家、女性が多くて婿を取ることが多かったって今言ったでしょ。受け継がれる間に、名前が神田から巫部に変わった。でも元は同じ」
清和はしばらく、何も言えなかった。
「それで神田はたぶん——俺が生きてた頃の、苗字だよ」
「っ!」
清和の頭の中で、何かがはじけた。
(そうだ、あの夢の——表札に)
夢の中で見た光景が戻ってくる。集落の入口に、古い木の板が立てかけてあった。文字が彫られていた。あの時は気にも留めなかったが、今なら分かる。あれは家名だった。
(神田)
「余り自信は無いけど」
フワが続けた。
「そうだって、俺の中の何かが言ってる。たぶん俺の家系の誰かが伽耶で——伽耶の子孫が清和だ」
(フワのお姉さん)
あの夢の中で思った言葉が戻ってくる。弟の名前を呼んで何が悪いのよ、と笑っていた娘。その血が、何百年もかけて、今ここに来た。
「じゃあ、俺は」
「うん」
「フワの、何になるんだ」
「すっごぉーく遠いところの子孫、かな」
フワがようやく顔を上げた。
黒い目が、清和を見ていた。
「ずっと前から気づいてたのか」
「……初めて会った時から、なんかそんな気がしてた。でも」
「でも?」
「言ったら清和が、縁があるから一緒にいなきゃって思うかもしれないと思って」
「……は?」
「血の縁とか、そういうのじゃなくて。清和が清和だから、一緒にいたかったから」
清和は何も言えなかった。
綾人が台所の入り口に立ったまま、黙って聞いていた。彩夢が湯呑みを置いた。
「それで黙ってたの、ずっと」
「うん」
「バカ」
「えぇ」
「でも」
清和は一拍置いた。
「ありがとな」
〜〜〜〜
それが起きたのは、その直後だった。
部屋の外が、真っ暗になった。
窓の向こうが消えた。空も、道も、隣のビルも——真っ黒になった。昼間の光が、一瞬で引き取られたように。
部屋の気配が、変わった。
空気が一瞬でひやりとした。温度ではない。質感が変わった。フワが飼い馴らしていた、この部屋の安心感のようなものが——薄れた。綿が水を吸うみたいに、ゆっくりと、でも確実に。
「フワ殿」
彩夢が立ち上がった。
フワは床の上で、動かなかった。目が細くなっている。
「っ、学校の時と同じだ」
「お話はひと段落いたしましたでしょうか」
声がした。
どこからでもない場所から。壁の中から、床の下から、天井の向こうから——全部の方向から同時に、伊東の声が聞こえた。
「何処にいるの!」
「いやはや、不思議な縁もあるものですな」
声は穏やかだった。ほとんど感心しているような響きで、部屋に満ちている。
「巫部君がフワ様の子孫だったとは、なるほどなるほど」
「ここはチビの神域だろ!なんで掌握されてんだ!」
「しくったよ」
フワが言った。声が、低い。
「昨日、力の大半を抜き取られたんだ。それを媒介にすれば神域に干渉できる」
「その通りです!まだ全ては引き出せませんが、少し引き出しただけでこれです!素晴らしい!」
伊東の声が、どこか浮ついていた。
彩夢とフワが目を合わせた。
「合わせて」
「ええ」
『裂』
二つの術式が重なった。
窓に、縦に一本の線が走った。
線が広がる。ガラスが砕けたわけではない。ガラスの向こうに、別の色が見えた。暗くない外。昼の光がある外。現世の外だった。
「出るわよ!」
「清さんこっちです!」
清和は走りながら窓枠に向かいながら気づいた。
「これ!割れたのは常世だよな!現世の窓は——!」
「現世は無事ですよ、そちらの窓枠を踏み台にしてください!」
「考えましたね」
伊東の声が、ほんの少しだけ笑いを含んだ。
「境を利用して外に出ましたか。では、また」
〜〜〜〜
窓から飛び出した。
三人と一柱。清和のアパートは二階だ。
「清和、身体借りるよ!」
飛んだ瞬間に、フワが入ってきた。
『風雅』
風が四方から包んだ。落ちる速度が、ゆるやかになった。
地面に、静かに着いた。
「よし」
『隠』
フワが続けて唱えた。薄い膜が、四人の周囲を覆う。通りを歩く人が一人いたが、そのまま通り過ぎた。見えていない。
「うちに逃げるわよ!」
彩夢が先頭に立った。走り出す。綾人がすぐに続く。
那岐家に向かって走る途中、街の空気が変わった。
最初は彩夢が気づいた。
「……来てる」
走りながら、小さく言った。
「姉ちゃん、これ」
綾人が続いて気づいた。走りながら周囲を見渡している。
「何が?」
「結界よ。うちが街中に張ってる穢れの検知用の——それが今、別の目的で動いてる」
世界にノイズが走った。
街灯の光が、少し白くなった。色温度が変わったのではない。光そのものの質が変わっている。人の少ない夜道が、さらに人気を失っていく。でも空き地ではない。行く先には人影が、いくつかある。
止まっている。
「あの人たち何処を見てるんだ?」
「霊感が少しある人間が常世に引きずられてる。私たちと違って『瘴気』に耐性がないから……ともかく!伊東が街全体を常世に変えようとしてるのよ」
「全体を?!」
「さっき奪った力を鍵に使って、街中の結界を一度に動かした。量でごり押しする気ね」
立ち止まった市民が、ぼんやりとした目で宙を見ている。声をかけると返事はある。でも焦点が定まっていない。水の中にいるような顔だった。
「……私と綾人で対処する」
彩夢が言った。
「あなたたちは那岐家へ。境内なら伊東の術も届きにくい」
「でも」
「行って。これは私たちの方が対応できる。保護と記憶の処理をしないと」
綾人が頷いた。頼もしい顔をしていたが、手が少し緊張していた。
「清さん、チビも、気をつけて」
「で、でも」
子供をこんな場所に置いて先に逃げるのは——清和の頭の中で、言葉にならない何かが引っかかっていた。
「…清さん、数珠、出してください」
「え、あ、ああ」
「そんな不安な顔しないでください」
綾人が清和の腕にかかった数珠を、両手でそっと包み込んだ。柔らかな光が発せられる。手の中で、確かな熱が生まれた。
「!これって霊力だよな?」
「流石です、もう感じ取れるようになったんですね」
「俺の霊力を再度込めました。これで少しは守れると思います」
「…綾人君」
清和は、自分の両手で自分のほっぺを叩いた。
「ありがとう。行こう、フワ」
(うん)
〜〜〜〜
那岐家の境内は、静かだった。
静かすぎた。
門をくぐった瞬間に、清和は感じた。
——いや、フワが感じた。体の中から、明確な警戒が伝わってくる。
(待ってる)
(二人)
「分かった」
清和は足を止めなかった。
境内の奥、本殿の前に、二つの影があった。
一つは人の形をしている。静かに立っている。眼鏡をかけて、スーツを着ている。
伊東だった。
「よくいらっしゃいました」
もう一つは、人ではなかった。
黒い、ぼやけた輪郭。何度も向き合ってきた、酒井の怨霊だった。前より密度が高い。境内の石畳が、その足元から黒く染まっていく。
「準備がいいですね」
清和は言った。
「随分と準備に時間をかけましたから」
「何故、こんなことを?」
「おや、フワ様から聞いておりませんか?まぁいいでしょう、私は神になりたいんですよ。厳密に言えば唯一神、天上より人間を見下ろし試練を与える、自分より上などいない、ああ、想像するだけで心地の良い」
(山神の力をパックっただけで想像力豊かだこと)
「そのために、色々準備をしていたのです。その一つがようやく実った。特に酒井くん!この子は上出来です」
伊東の声が、懐かしそうに続いた。
「生来の恨まれ体質、腐った性根、ねじ曲がった心根、加えて狭いコミュニティによる悪意の密閉——あのような職場は、怨念や穢れを集め死期を早めるようなもの」
「僕の職場と上司が、思ったよりやばい」
(それは今更だと思う)
「さぁ、貴方の力をすべて奪って輝かしい未来へ!」
(清和、くるよ。変わって)
「ああ、交代だ」
〜〜〜〜
戦いは、最初から不利だった。
フワは清和の体の中にいる。外に出ると霊力が安定しない。だから清和の体を使って術を出す。でも一人の体で二人分は、やはり限界がある。
酒井が動いた。
清和が数珠を使って弾く。フワが体の中から術式を重ねる。
でも伊東が動いた瞬間に、それが来た。
『分散』
低い声で、伊東が一語だけ言った。
清和の体の中で、何かが引き剥がされた。
痛みではない。でも感覚として——温かいものが、急に引き離された感じがした。
「っ——」
フワが、体の外に出た。
強制的に。
宙に浮かんでいる。小さな体が、いつもの赤いTシャツで、でも今は霊力が不安定で輪郭がわずかに滲んでいる。
「清和!」
「無事か」
「うん。でも出された、これはまずい」
清和には、フワが外にいることで自分がどれだけフワに支えられていたかが、急に分かった。体の感覚が、少し薄くなった。術式を使う感覚が、曖昧になった。頼りにしていたものが、急になくなった感覚だった。
酒井が動いた。
清和ではなく、フワに向かって。
「っ——フワ!」
「俺は大丈夫だから!」
酒井の黒い腕がフワを捕まえた。フワが抵抗する。でも力が不安定で、完全には振り払えない。
「おお、やはりあなたには無理ですね」
伊東が言った。柔らかい声だった。
「酒井君は私に逆らえない。彼はあなたを殺したいそうですが、今は我慢してもらっています」
「なに、が、したいんだ、あんたは」
「見ていてください」
伊東がポケットから、紫のビー玉を取り出した。
あの光。あの中に、フワから奪った力が詰まっている。
伊東の手の中で、紫の光が揺れた。
「さあ、こちらを」
伊東が、力を引き出そうとした。
でも——動かなかった。
ビー玉が手の中で激しく揺れた。拒絶するように。力が形にならない。伊東の指先が白くなった。額に汗が滲んだ。
「……」
「『合わない』のか?」
清和は、それを見ていた。直感的にそう思った。適性がない。この力は、伊東のものにはなれない。
(清和)
フワの声が届いた。酒井に押さえられながらも。
(今だよ)
清和は走った。
正確には、術を使おうとした。
『風雅』
音にするのではなく、言葉にした。山の音を思い浮かべて、声に乗せた。
完全ではなかった。でも、風が足元から来た。一瞬だけ、体が浮いた。その勢いで、伊東に向かって飛んだ。
手を伸ばした。
ビー玉が、手の中に入った。
「……!」
伊東が奪い返そうと手を伸ばした。
その瞬間に、声が聞こえた。
どこからでもなく、全部の方向から。夢の中で聞いた、古い何かの声で。
『望む心象を言の葉にし形にせよ』
清和の頭の中に、子供の頃の絵が浮かんだ。
魔法使いが、大きな火球を作って悪者をやっつける。そういう話を描いていた、ノートのぼこぼこのページ。誰にも見せなかった絵。誰にも言えなかった夢。
(でっかい、火の玉)
『ブレイズ』
言葉にした。
火が出た。
完璧ではなかった。思ったほど大きくもなかった。でも、確かに火だった。伊東の手に向かって、真っ直ぐに飛んでいった。
「っ!」
伊東が後退した。
「きよ、かず……」
ビー玉は、清和の手の中にあった。
力が流れ込んでくる。
手のひらから、腕の内側を抜けて、全身へ。重い。扱いにくい。苦しい、でもたぶん——
扱える。
清和の霊力と、フワから奪われていたものが——同じ方向を向いた。
「なぜ」
酒井に押さえられているフワを、清和は見た。
「なぜだ!なぜお前がそれを使えている!」
「返す」
フワが目を丸くした。
「あんたの力だろ。返すに決まってる」
手を、フワに向けた。
声にした。
『来い』
それは言霊だった。
今まで術を使う時と、質が違った。清和自身も分かった。ただの言葉ではない。名前を呼ぶみたいに、糸を力いっぱい引き寄せる向こうに届く声だった。
ググッ
酒井の腕が、揺れた。
『——来い』
もう一度。
フワが、引っ張られるように動いた。酒井の腕を引き剥がして、清和の方に向かってきた。
「清和!」
『そのまま来い!』
覚えた。声に乗せれば届く、と。言葉に形を与えれば、届く、と。
『神田眞白!』
フワが、清和の手に触れた瞬間に、力が流れた。
「まさか!『真名』か!」
フワの輪郭が、定まった。
いつもより少し、重い気配がする。奪われていた力が戻って、安定した。その光で、酒井の怨霊がぐらりと揺れた。
フワが向き直った。
普段のにこにこした顔ではなかった。静かな、落ち着いた顔だった。夢の中で見た子供の顔と、少しだけ似ていた。
「終わりにしよう、酒井さん」
『浄』
一語だった。
光が広がった。
酒井の怨霊が、散るのではなく——溶けた。少しずつ、少しずつ。黒いものが薄れていって、最後には何もなくなった。
痛みのようなものは見えなかった。
ただ、なくなった。
〜〜〜〜
伊東は、いつの間にかいなかった。
境内に、清和とフワだけが残っていた。
清和が息を吐いた。全身が疲れている。でも倒れない。
「フワ」
振り返った。
フワが、そこにいた。
いつもの赤いTシャツ、短パン。スクイーズは持っていない。でも、その輪郭が——
薄くなっていた。
「フワ?」
「ちょっと待って」
フワが言った。でも声が、遠い。
「何が起きてる」
「分からない。でも、なんか」
「なんか?」
「清和の霊力と、混ざった感じがして」
フワの輪郭が、さらに薄れた。見えているのに、向こうが透けてくる。石畳の模様が、フワを通して見えた。
「フワ!」
清和は手を伸ばした。
触れられなかった。もう、その手がすり抜けた。
「清和」
「フワ!消えるな!」
「まって清和」
「フワぁぁ!」
(ここにいるよ)
フワの声が、どこかから聞こえた。
前でも後ろでもない。
内側から、聞こえた。
清和は、止まった。
手を引いた。自分の胸に、触れた。
フワが、いた。
(清和)
「……」
(ちゃんとここにいる。消えてない)
清和は、しばらく何も言えなかった。
境内の石畳が、静かだった。
酒井の痕跡はない。伊東もいない。夜の境内に、虫の声が戻ってきていた。
時刻は零時過ぎだった。
常世と現世では時の流れが違うのかいつの間、数時間が過ぎていたようだ。
「フワ」
(うん)
「出てこれるか」
少し間があった。
フワが、清和の隣に現れた。半透明だった。いつもよりずっと薄い。でも、顔は分かる。
「出られるけど、さっきより力を使う感じ」
「俺の中にいる方が楽なのか」
「うん。たぶんこれぞ、二人でひとつの状態」
清和は、しばらくフワを見ていた。
「……大丈夫なのか、そういうの」
「清和が慣れてくれれば、きっと」
「そうか」
清和は、夜空を見上げた。
遠くで、街の音が戻ってきていた。車の音、どこかの窓から漏れる音楽、犬の声。常世が解けている。
伊東が去ったからか、彩夢たちが片付けたか。
以前、誰にも届かない言い訳を頭の中で繰り返していた。午前零時に解ける魔法なんてない、と思っていた。
でも今は——零時を過ぎた境内で、確かに火を出した。
不思議な達成感があった
「フワ」
(なに)
「まだここにいるよな」
(いるよ)
「そっか」
それだけ言った。
石畳の上に、清和の影だけが落ちていた。




