拾参話
朝の光が、那岐家の縁側に差し込んでいた。
以前お邪魔した神社内の客間ではなく、境内から少し離れた離れのリビングだ。和でなく洋の内装で、普通の住宅に近い。昨夜から急遽ここを使わせてもらっている。
台所から、包丁の音がする。綾人が朝食を作っている。昨夜あれだけのことがあって、今朝もこうして食事を作っている。清和はしばらくその音を聞きながら、あの夜を思い返した。
(清和、おはよう)
「おはよう」
小さく返した。
フワの気配が、内側にある。半透明で外に出てくることもできるが、今朝は中にいる方が楽らしかった。
「おはようございます、清さん」
綾人が顔を出した。目の下に薄いクマがある。
「……お前、眠れたか」
「三時間くらいですかね、ふぁあ」
「ありがとな、昨日」
「全部終わったんで」
綾人は照れたように顔を引っ込めた。
「それにしても驚いたわ、常世が解けたら早朝から深夜になってたなんて、お肌の調子が崩れちゃうじゃない。休日でよかったわ」
彩夢はすでに座っていた。昨夜の衣服のまま、髪だけ直している。品のある座り方で、出された茶を当然のように飲んでいた。
(彩夢ちゃんおはよー)
「おはようフワ殿、調子はいかが?」
(なんだかね、不思議な感じ。少し神通力が清和の魂に馴染んで、清和から離れられない感じがする)
「そう、それは不便ね」
彩夢は少し考えてから、柔らかい声で言った。
「そんなところでは息苦しいでしょうに」
「そんなところって」
清和が言うと、彩夢は澄ました顔で続けた。
「後で、話しましょう」
「ところで綾人ごはんまだ?」
「お姉ちゃんは少し手伝ってくれない?」
〜〜〜〜
朝食が並んだ頃、清和のスマホが鳴った。
不在着信が、七件。同僚の番号、総務の番号、見知らぬ番号がいくつか。
「どうぞ」
「すまん」
部屋の外に出た。
「……もしもし」
折り返してみると、総務の女性が開口一番言った。
「巫部さん、連絡つながってよかった。色々大変なことになってまして」
「色々?」
「会社なんですが……本日急遽解散手続きに入ることになりました」
「……は?」
「昨晩、酒井社長がお亡くなりになられたとのことで。親族の方が経営を引き取ろうとしたらしいんですが、負債が発覚して。詳しくは書類をお送りしますが、雇用は——」
清和の頭は、一瞬真っ白になった。
「……解雇となります。申し訳ございませんがこちらも事態の把握が追いつかない状態でして、後ほど書類をお送りいたします。正式な手続きは委託先を通じて……」
その後も小難しい話が続いた。
清和は壁に背中を預けながら、はい、はい、と相槌を打ち続けた。
「………わかりました、失礼します」
電話を切った。
戻ると、みんな清和を見ていた。
「無職に、なりました」
「あら」
彩夢が言った。特に驚いた顔ではない。
「呪術的に補強されていたのでしょうね。伊東がいなくなれば、ああいう組織は早いわ」
(清和)
「大丈夫だよ、今は」
清和は少し考えてから言った。
「退職金と貯金、有給とかで、数年は生きられると思う」
「それはそれでどうなの?」
清和は味噌汁を飲んだ。
温かかった。なぜか、悲しくなかった。
〜〜〜〜
朝食の後、彩夢が封筒を持ってきた。
「これ、読んでみて」
「なんですか、これ」
「雇用契約書よ。うちで働きなさい。深夜帯の現場担当、あなたとフワ殿でちょうどいい」
清和は書類を開いた。
「!!」
(なになに、どうしたの)
「ふ、福利厚生、が……」
一行一行、声に出しながら読んだ。
「年間休日百二十五日……完全週休二日制……有給、六ヶ月後に十日付与……夏季休暇、年末休暇、夜間手当……年末・お盆手当あり、慶弔休暇、育児休暇……」
「住宅補助——七割負担」
「フワ殿がいる場所があなたの生活拠点になるから、そう処理してもらった。那岐家の今使ってない離れをリノベーションしましょう」
「清さんと、住める……」
「離れによ、綾人」
「……危険手当、出るんですか」
「出るわよ、見回りの分ね」
「秘匿企業特別手当」
「こんな職場だしね。世間的には神社の男巫になるからそっちの勉強もしてもらうわよ。もちろん研修として手当は出るから……聞いてる?」
「……」
清和は書類から目を離した。
どこか遠くを見た。
「清さん?」
「いや」
「いや、じゃなくて、どうしました?」
「……今まで住宅補助も夜間手当も有給も昇給も碌になかったなと思って」
部屋が静かになった。
「清さん……」
「泣いてない」
「泣いて、いいのよ」
「目が赤いですよ」
「泣いてない」
(清和)
フワの声が、内側から聞こえた。
(大変だったんだね)
「憐れまないで」
清和は少し黙った。
それから、また書類に目を向けた。
彩夢が、最後のページを指差した。
「綾人も同じチームに入れるから。私は別の担当があるから現場には出ないけれど」
「え、俺、来年からじゃ?」
「そんな生易しいこと私が言うと思う?今月からよ」
「えぇ!」
「文句は?」
「……ないです」
綾人は清和をちらりと見た。
「よろしくお願いします、清さん」
清和は、少しだけ笑った。
「こっちこそ、先輩」
〜〜〜〜
話が一段落した頃、彩夢が立ち上がった。
「あと一つ、紹介しておきたい方がいるのだけど」
「方?」
「ついてきて」
庭を抜けて、鳥居の方に向かった。夕方近くで、境内に日が傾いている。昨夜の戦いの跡は、もう残っていなかった。
鳥居の横に、石造りの狛狐があった。古びていて、苔が少し生えている。でも形は崩れていない。凜とした顔で、前を向いている。
「……これが?」
「そうよ」
(……んん?)
彩夢は狛狐の前に立って、静かに言った。
「いつまでも黙ってるつもり?」
しばらく間があった。
それから、声がした。
夢の中で何度か聞いた声だった。「哀れな子よ」と言った声。決戦の夜に「望む心象を言の葉にし形にせよ」と言った声。
「やれやれ」
老いた、でも軽い声だった。
「彩夢はいつも急だな」
「二人が知らないってことは碌に手伝わなかったわね、堕落神」
「失礼だね。神社には被害がなかったろう?それにそこの人の子にはアドバイスもしたぞ」
「あ、あの火の……」
「ああ、まさか洋言でとは驚いたがな」
(あんた、いつからここにいたの)
「那岐家の始祖が土地を開いた頃だ。土地神がいないと気づいて、ならばよいと思った。それだけだ。それから数百年越しに綾夢に見抜かれ、しばしば話していた」
清和は、狛狐を見た。石のままだ。でも確かに喋っている。
(この気配)
フワの気配が、内側で動いた。驚きともつかない、静かな何かが伝わってくる。
「前の山神」
清和が言った。
「あなたが、フワに役割を渡した?」
「そうだ」
「なんで言わなかったんですか。フワはずっと、一人で山にいたのに」
「言う必要を感じなかった。役割を渡したのは気まぐれ、あの子の霊力が目に入ったから。山はあの子に任せて、私は自由に動いた。それだけのことだ」
清和は、思わず少し黙った。
「あんまりですよ」
「そうかの」
(清和、いいよ)
フワの声が届いた。
(怒らなくていい。でも、ありがとう)
「ずっと見てたんですか」
「たまにはな。あの子が面白いことをする時だけ」
「ビー玉の時の、アドバイスも?」
「あれはサービスだ」
「……なんで今さら」
「あの子が動けるようになったから。それだけだ」
また、沈黙があった。
彩夢が横から言った。
「でも、フワ殿が気づけなかったのは?」
「私は化けることと隠れることが得意でな。山神の目などには映らん」
(むぅ)
清和はもう一度、石の狛狐を見た。
夢の中で「哀れな子よ」と言った声が、ここから来ていた。百年以上前に眞白が死んだ夜、この存在が見ていた。
哀れな子よ、と言いながら——役割を渡した。
哀れに思いながら——見捨てなかった。
「フワ」
清和は、自分の胸の方に向かって言った。
「何か言いたいことは?」
少し間があった。
(……なんで言わなかったの)
狛狐が、少し黙った。
「特に隠す気はなかった、言う気もなかったがな」
(それは)
(意地悪だ)
「そうかもしれん」
もう一度の沈黙の後、フワが言った。
(でも、まあ。ありがとう。無駄な時間ではなかったから)
「どういたしまして」
狛狐がゆったりと続けた。
「ついでに力の整理をしておいてやろう。そのまま二人で詰まっておらんでもよい」
何かが、ゆるんだ。
内側にあったフワの気配が、少しだけ外に向けて広がった。境目が、また少し動いた。
——清和の体の外に、フワがポンっと出てきた。
フワが、清和の隣に現れた。半透明だが、昨夜よりはっきりしている。
「あ、出られる」
「よかった」
「ありがとう」
狛狐は、それ以上何も言わなかった。
〜〜〜〜
日が落ちた。
しばらくは那岐家に世話になることになった。清和のアパートは常世の影響が残っていて、すぐには戻れない。
常世というかあの時フワと綾夢が作った裂け目が悪さしているらしい、まぁ、時間が経てば収まるようなので良いのだが…
彩夢が「部屋を一つ使いなさい」と言って、それ以上の説明はなかった。
夕食は、また綾人が作った。
「お前、最近料理ばっかだな」
「姉ちゃんが料理できないんで」
「できるわよ。電子レンジが爆発したのは一回だけ」
「一回で十分です」
食後、縁側に出た。
夜の空気が、冷えていた。夏の終わりが、もうすぐそこにある。
(清和)
「なに」
(おなかすいた)
「さっき夕飯食っただろ、お前俺の胃袋を使うな」
(でも食べたい)
「お前に胃はない」
(あっても食べたい)
清和は、少し笑った。
月が出ていた。
石畳に、清和の影が落ちていた。
よく見ると、その影の端に、もう一つのかたちがうっすらと重なっている。子供の、小さな影が。
でもすぐに消えた。
風が来て、木の葉が揺れた。
(ねぇ清和、明日からの仕事って夜だけ?)
「深夜帯だから、たぶんそう」
(じゃあ昼間はゆっくりしてられるね)
「そうだな」
(それは)
フワの声が、少し間を置いた。
(よかった)
清和は返事をしなかった。
でも、縁側に座ったまま、もう少しだけそこにいることにした。
月が、静かに空の中を動いていった。
ーーこれにて筆を擱く ーー




