こぼれ話 壹
むかしむかしのことでございます。
神田の家は、代々神様に供える米を育てる畑を守っておりました。神職の方々が使う清らかな米は、ただの田では育ちませぬ。
水の取り方、日の当て方、土の休ませ方、そのすべてに古くからの定めがあり、神田の家はその定めを一つずつ、親から子へと伝えて参りました。
華やかな役目ではございません。神職の方々のように、御前に立つことも、名を呼ばれることもございません。ただ黙々と土に触れ、米を育て、それを納めるだけの、地味な家系でございました。
けれど、それでよいと思っておりました。神様に近しい仕事をいただけるだけで、それは十分な誉れであったのです。
さて、ある年のこと。
神田の家に、男の子が生まれました。
生まれてすぐに、ただならぬことが分かりました。その子には、本来ならば神職の者だけが宿すはずの霊力が、生まれながらに備わっていたのでございます。畑を耕すだけの家に、そのような力が宿るのは前代未聞のことでございました。
村の古老たちは、これを喜びませんでした。
霊力とは、神に近しい力。それをただの畑守りの家の子が持つのは、分をわきまえぬこと、あるいは何か良からぬ兆しではないか——そう言う者が、少しずつ増えて参りました。
そしてついに、男の子の命を狙う者が現れました。
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両親は、二人の子を連れて、夜のうちに家を出ました。
姉は、まだ幼い盛りでございました。
弟の手を引きながら、闇の中を歩いた夜のことを、今でも覚えております。星明かりだけを頼りに、後ろを何度も振り返りながら歩いた、あの夜のことを。
けれど、逃げるということは、思っていたよりずっと厳しいものでございました。
持ち出した路銀は、いくらも保ちませんでした。里を離れ、道もない山や谷を渡り歩くうちに、蓄えは底をつき、家族は幾日も、ろくに食べるものにありつけぬ日々を過ごすことになりました。
幼い弟の腹の虫が鳴く音を、姉はどれほど聞いたことでしょう。
そんなある日のこと。
一行が山道を歩いておりますと、一人の旅の者が、恐ろしい怪異に襲われている場に行き合わせました。旅人は逃げることもできず、まさに命尽きようとしておりました。
その時でございます。
幼い弟が、火がついたように泣き出したのでございます。
わけも分からず泣きじゃくるその声が、あたりに響き渡ったその刹那——怪異は、まるで塩をかけられた蛞蝓のように、跡形もなく消え去ったのでございます。
旅人は、九死に一生を得ました。涙ながらに一家に礼を述べ、持っていた金子と、幾日分かの保存食を分け与えてくれました。
その日から、一家は考えを改めました。
弟の力があれば、人を助けることができる。人を助ければ、その礼に、生きていくための糧を得ることができる——そうして、家族は各地を渡り歩きながら、困っている者を助け、時に怪異を祓い、その日その日を生き延びるようになりました。
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そうして幾つもの土地を巡り、幾人もの人と関わり、幾つもの命を救ううちに、季節はいくつも巡りました。
ある時、一行はとある村に辿り着きました。
村長に弟の力をお見せすると、村長様は腰を抜かさんばかりに驚かれ、たちまち村中総出で、弟を敬うようになったのでございます。
最初は、ただの村内の噂に過ぎませんでした。旅の子供が不思議な力を持っている、ありがたい子だ——その程度の話でございました。
けれど、村長様をはじめ、村の者たちは、やがてこう言い出したのでございます。
この子は、神の生まれ変わりに違いない、と。
初めは戸惑っていた両親も、皆の熱心な声に日々晒されるうちに、だんだんとそのように思い込むようになって参りました。
人の心とは、恐ろしいものでございます。周りの声が積み重なれば、親でさえ、我が子の見え方が変わってしまうのです。
そうして、弟は神として祭り上げられていきました。
誰も、弟の名を呼ばなくなりました。
弟の姉である、この小夜を除いては。
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「いいかい、小夜。あの方は神様の生まれ変わり、軽々しくお名前を呼ぶんじゃないよ。ただでさえ恐れ多くも人名をつけてしまったのだからね」
「はい、お母様」
「ああ、早々に神名を頂戴したいわ。村長様はどうしてらっしゃるのかしら」
「まあまあ、神名なんてえらいもん考えるお役目をあえられた村長の身にもなるんだ、きっと素晴らしいものを考えてくださる」
この村に来てから、両親の目には、もはや眞白の姿は見えなくなっていたのでございましょう。代わりに、両親の目には『神様』が見えているようでございました。
小夜は、聡い子でございました。
こうなってしまった大人たちに、子供である自分の言葉など届くはずもない——それは幼いながらに、痛いほど分かっておりました。
だから小夜は、自分でなんとかしようと心に決めておりました。
もう少し自分たちが大人になり、山を越えられるだけの力がついたなら、村から金目のものを少し盗み、弟を連れて逃げ出すつもりでございました。
それまでの間は、せめて自分だけでも弟の側にいてやろう、それだけを心の支えにしておりました。
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けれど、現実というものは、そう易々とは参りませぬ。
眞白が神事を執り行うようになって、二年の歳月が経った頃のことでございました。
村を、不幸が襲いました。
大雨が幾日も降り続き、丹精込めて育てた畑の作物は、根こそぎ駄目になってしまいました。おまけにその雨で山の斜面が崩れ、土砂崩れが起こり、民家にまで被害が及びました。加えて、突然、病に倒れる者まで出始めたのでございます。
ただの、自然の巡り合わせでございました。
けれど、村の者たちは、それを眞白のせいにしたのでございます。
あの子は、まことの神ではない。神を騙ったがために、山神様の怒りを買ったのだ——そのような声が、あっという間に村中に広がって参りました。
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ある夜のこと。村の若い衆が、一家の住まいに押し入って参りました。
両親は取り押さえられ、抗おうとするたびに、容赦なく傷つけられました。小夜も手首を荒縄で括られ、そのまま弟の部屋まで無理やり案内させられました。
弟の部屋の前に来た、その時でございます。
「眞白!逃げて!逃げなさい!!」
小夜は、声の限りに叫びました。
けれど、それは無駄なことでございました。
その後、小夜と両親は屋敷の柱に縄で括られ、屋敷ごと火を放たれたのでございます。
炎の中、両親は最後の力を振り絞り、自分たちの縄ではなく、小夜の縄だけを、かろうじて解いてくれました。
小夜は、逃げました。
村人たちに見つからぬよう、闇に紛れて、山の深く、深く奥へ。
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どれほど歩いたのでございましょう。
山の奥に、小さな洞穴を見つけました。その奥に、古い祠がございました。かつてこの山に祀られていた、眞白より前の神様の祠でございました。
眞白が、この地で神と祀られるより、さらに昔から在った、その神様の祠でございます。
小夜は、その祠の前で、神様に謝罪を申し上げました。
自分たちの家系が、分不相応な力を授かってしまったこと。それを人が神と偽り、それを己が信じ込み、村を巻き込んでしまったこと。すべてを、涙ながらにお詫び申し上げました。
そして、一つだけ、お願いをいたしました。
せめて、弟の魂に、安らぎを。
神様は、その願いを聞き届けてくださいました。
その代わりに、二つのことをお約束いたしました。
一つ、この山には、何人たりとも立ち入らぬこと。
一つ、小夜が、この山の管理を生涯にわたり、子々孫々まで続けていくこと。
その誓いを立てたその日から、この山は膨大な霊力に包まれ、小夜以外の人間は、神の力によって『隠され』ました。人の目には、もはやこの山は、ただの立ち入れぬ禁足の地としか映らなくなったのでございます。
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小夜は、山から少し離れた村に流れ着き、そこで静かに暮らしながら、幾年月にもわたり、定期的に山へと通い続けました。
弟の眠るこの山を、誰にも汚させぬように。
弟の魂が、少しでも安らかであるように。
そして小夜は、姓を神田から、神に仕える者として『巫部』と改め、代々、婿を家に迎え入れるしきたりを作りました。
娘から娘へ、家督を継がせ、山への誓いを絶やさぬように。
それが、巫部の家の始まりでございます。
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……さて、ここまでが、小夜の語る、昔むかしのお話でございました。
この物語が、遠い刻を超えて、どこかの誰かに繋がっていくとは——その時の小夜には、知る由もなかったのでございます。




