こぼれ話 貳
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜
◻️◻️はふわふわと漂っていた。
それ以外することがなかった。稀に夜になると肝試しと称して山に入ってくる人間を眺めるくらいだ。たまに山でいたずらしようとする人間を驚かしていたが、本当に何もない日の方が多い。
少し前は、山の外が騒がしかった。
鉄の鳥が空を飛んで、麓の里が燃えて、大勢の魂が一度にどこかへ行った。山の上からそれを見ていた。何もできなかった。何もしなかった。ただ、見ていた。
近頃は鉄の鳥も飛んでいないし、麓の里も燃えていない。
(魂の急な減少が落ち着いて、いろんなところから集まって来てる)
少し目を閉じて、魂の流れを見る。乱れていたものが、少しずつ戻っている。まだ時間はかかるが、落ち着く方向に向かっていた。
◻️◻️はまたふわふわと漂い始めた。
そういう冬の日のことだった。
〜〜〜〜
「お、い、おい!チビ!生きとんのか?」
足音がした。
禁足地に、足音がした。
◻️◻️は顔を上げた。
雪の積もった山道を、一人の少年が登ってくる。半袖に短パン。冬だというのに。顔が赤い。足元が覚束ない。でも進んでいる。
「……僕のこと?」
「お前以外に誰がいんだ!」
少年は◻️◻️の前に立った。息を切らしながら、でも胸を張っている。
「お前、こんなとこでなにしてんだ、ここは禁足地だぞ」
「僕からすると君の方がなんでここにいるの?って聞きたいんだけど」
「君、誰?」
「ああ、人に名前を聞くときはまず自分からだろうが」
「僕、名前ないの」
「はあ?何言ってんやお前」
少年は◻️◻️をじろじろと見た。白い着物を着た、自分より少し小さい子供に見えるだろう。実際には比べ物にならないほど古い何かなのだが、そんなことはこの少年には分からない。
「まぁ、チビで十分か。ふっ、俺様の名前はしかと覚えとけよ」
「はいはい、君のお名前は?何処から来たの?お母さんは?」
「ガキ扱いするな!俺は巫部!巫部毅だ!」
「!」
聞き覚えのある名前だった。あの巫女——伽耶の家系の、名前だ。
でも少年は◻️◻️の反応など気にしていなかった。
「俺はこの山で一人で生きていくのだ、このバール仮面のように!」
そう言って自分の服をバーンと主張してくる。
赤いTシャツに短パン。胸元のTシャツには、ヒーローらしき絵が描かれていた。拳を突き上げた人物が、炎の中に立っている。
「……そう」
「そうだ!邪魔するな!俺は誰にも見つかりたくないんだ!」
〜〜〜〜
少年は動かなかった。
◻️◻️が下山を促しても、首を振るだけだった。何かから逃げてきたのか、何かに向かっているのか、どちらかは分からなかったが、とにかく強情だった。
「寒くないのか」
「寒くない」
「嘘をつくな、唇が青い」
「うるさい」
少年はしゃがんで、雪を掴んだ。手が真っ赤だった。
◻️◻️は白い着物一枚だった。寒くはない。霊には関係がない。でも少年はそれを見て、眉をひそめた。
「お前、そんな格好で寒くないのか」
「寒くないよ」
「ばぁか、ほら脱げ脱げ」
「は?」
気づいたら、自分の赤いTシャツを引き抜いていた。半ば強引に、◻️◻️の頭からかぶせようとしている。
「君の方が寒いと思うんだけど」
「うるさい!黙って着とけ!」
脱がされた。
◻️◻️は気づいたら赤いTシャツを着ていた。大きすぎて、裾が白い着物の上まで垂れている。
少年はパンイチになった。雪の中で、下着一枚で。
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だ!」
「そう」
寒くはない。でも、何かが変な感じがした。この服には、人間の温もりが残っている。それがなんとなく、ふわりと心地よかった。
〜〜〜〜
話すうちに、少し分かってきた。
少年は家出してきたらしかった。詳しくは言わなかったが、戦争が終わって、色々あって、ここに来た。誰にも見つかりたくないと言った。山で一人で生きていくと言った。
「無理だよ、君は人間だから」
「なんで分かんだ」
「食べるものがない。寒すぎる。冬の山で人間は生きられない」
「お前は生きてるじゃないか」
「僕は人間じゃないから」
少年は◻️◻️を見た。まじまじと見た。それから、「そうか」と言った。
「じゃあ山の神様か何かか」
「まあ、そんな感じ」
「なんで教えてくれるんだ」
「追い払いたいから」
「帰らない」
「そう」
◻️◻️は少し考えた。
「少しだけいていいけど、日が落ちる前には帰ること」
「……」
「それだけ」
少年は黙っていた。返事はしなかった。でも少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
「お前、ヒーローが好きなのか、そのシャツ」
「ああ」
「強いから好きなのか」
「……違う。誰かのために戦えるから好きなんだ」
◻️◻️は、少し黙った。
「そう」
〜〜〜〜
目を離した瞬間だった。
少しだけ、遠くの魂の流れを確認しようとした。ほんの少し。
振り返ったとき、少年がいなかった。
正確には——いた。
崖の下の斜面に、倒れていた。足を滑らせたのか、石に躓いたのか。雪に覆われた斜面に、小さな体が横たわっていた。
◻️◻️は、降りた。
触れた。
冷たかった。
人間の魂が、すでに動いていなかった。
「……」
◻️◻️は、そのまましばらく、そこに座っていた。
何が起きたのか、分かっていた。分かっていて、でも何もできなかった。間に合わなかった。気づかなかった。
人間の死を、見てきたことはある。戦争の時も、病の時も、老いの時も。でもそれはいつも遠くからだった。
初めて、近くで——誰かの、死を、見た。
誰にも見つかりたくないと言っていた。
その言葉だけが、頭の中に残っていた。
〜〜〜〜
◻️◻️は術を唱えた。
伽耶から教わった術式の、応用だ。
「かくれ、かくれ、陰に飲まれたまえ、見るものの目をくらませ、知るものの声を曇らせよ」
少年の体が、静かに消えた。
誰も見つけられない。誰も知らない。少年が望んだように、ここで、ひっそりと。
◻️◻️はしばらく、その場所に立っていた。
雪が降り始めていた。
少年が言っていた。誰かのために戦えるから好きなんだ、と。
その言葉が、なんだかずっと引っかかった。
赤いTシャツを、◻️◻️は見た。大きすぎて裾が垂れている。ヒーローの絵が描いてある。拳を突き上げた人物が、炎の中に立っている。
着たまま、山に戻った。
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜
でも、何かが変わった気がした。
なんとなく。
ふわ〜 ふわ〜 ふわ〜




