こぼれ話 參
那岐家に生まれた長女、那岐綾夢。
その子は、生まれた時よりすでに、他の赤子とは違う何かを授かっていた。それは、まだ言葉も持たぬ赤子の頃から、家族の誰の目にも、なんとなく感じ取れるものであった。
「あうわー、あー」
小さな手が、何もない宙をぎゅっと握る。
「うふふ、この子ったらまた何もないところを掴んでる」
母、那岐桜が、笑いながらその小さな手を見つめた。目には見えない何かを、確かに捕まえているような、そんな仕草だった。
「綾夢〜、こっち見てくれ〜、パパを見てくれ〜」
父、那岐柊が、必死に顔を近づけている。だが綾夢の視線は、父の顔の少し横、誰もいないはずの空間をふらふらと追いかけていた。
「うー、ああー」
「ほら、母さんも綾夢を抱っこしてみてくれ」
祖母、那岐巴が呼ばれて綾夢を抱き上げた。
その瞬間、巴の表情が、ほんのわずかに硬くなった。
「………ああ」
「母さん?」
「なんでもないよ、綾夢や、ばぁばのところおいで」
「あぅあー」
腕の中で、綾夢が嬉しそうに笑う。その笑顔の裏で、巴は静かに胸の内でつぶやいていた。
(どうか、気のせいであっておくれ)
長年この家系に生きる霊術師として、巴には分かっていた。この子が握ろうとしていたもの、この子の視線が追っていたもの——それは、決して「何もないところ」ではなかった。
*****
綾夢、二歳の頃。
「うわーん」
縁側で、綾夢が泣きじゃくっていた。
「どうしたんだい、綾夢」
「もやもやにリボン取られた〜」
小さな手が、髪につけていたはずのリボンのない頭を指差す。
「っ!」
巴の顔つきが変わった。
「ばぁばにまかしな」
そう言って巴は両手の指を特定の手順で組み合わせ、輪を作った。その輪の内側から、庭の一点をじっと覗き込む。
『……すぅ、はぁ。見えざるものよ、しかしそこにありしものよ、この目にその身をみせよ——狐窓』
呟くと同時に、巴の目つきが変わった。長く霊力を扱う修練を積んだ者だけが使える、簡易な視の術。こうして術をかけねば、老いた巴の目には、もはやそういうものはうっすらとしか映らないのだった。
「まったく、ここに湧くなんてね——『破邪』」
そう言ってもやの輪郭を削る。輪郭を失ったもやは、怯えたようにくわえていたリボンを取り落とし、庭の隅へと逃げていった。
「っはぁ、はぁ」
老体には、一術でもいささか堪える。巴は肩で息をついた。
「おばあちゃん?大丈夫?」
「大丈夫だよ、ほら綾夢ちゃんのリボン」
拾い上げたリボンを、しわの寄った手に握らせる。
「ありがとう!」
綾夢はぱっと表情を輝かせ、リボンを受け取った。それから、じっと巴を見上げた。
「じー」
「なんだい?」
「さっきのあやめもやりたい!!」
「え?」
巴の顔が固まった。二歳の孫の口から出た言葉の意味を、飲み込むのに少し時間がかかった。
〜〜〜〜〜
その後、綾夢の一週間にわたる駄々が始まる。
「やりたい」「やりたい」「やりたいー!」と、家中のどこにいても聞こえてくる声に、桜も柊も、そして巴も、日々ほとほと疲れ果てることとなった。
〜〜〜〜
綾夢、三歳。弟の綾人が生まれた。
「お姉ちゃんだよー」
小さな布団に寝かされた赤子を、綾夢はまじまじと覗き込んだ。
「あー」
「んふふ〜」
生まれたばかりの弟を見て、綾夢の顔がとろけるように緩んだ。姉になったのだという実感が、その幼い胸にもすでに芽生え始めていた。
「あ、こら綾人に近くな!」
不意に、綾夢が両手を突き出した。
『格界!』
まだ弱々しい光の檻が、赤子の周りにぽうっと現れ、それを覆う。触れたもやは、小さな爆発を起こして四散した。
三歳児が唱えたにしては、あまりに立派な結界だった。
「ほらー、綾夢、綾人はねんねの時間だからいたずらしないの」
「いたずらじゃないもん、守ってるんだもん」
「はいはい、そっちいってて」
「むぅ」
不満げに頬を膨らませ、綾夢は縁側の方へと足を向けた。
〜〜〜〜
境内に出た綾夢。
「むう、あやめを除け者にしてー、プンプンなんだよ!」
家の中では、みんなが弟の世話にかかりきりだった。それが少しだけ、寂しかった。
「こうなったら」
『破邪』『破邪』『破邪』『破邪!!』
「あはは!破邪ーー!!」
そう言って綾夢は、境内のあちこちに向かって、手当たり次第に術を放ち始めた。
『破邪』とは、霊術師が使う攻撃特化の術である。霊力を一点に集約し、狙いを定めて打ち出す。簡単に言えば、握り拳ほどのエネルギーの玉だ。
ただし、この術は霊力の消費が激しいのが難点で、現代においてこれを連発し、なおかつ十分な威力を保って使いこなせる者は、綾夢を含めてもごく数名しかいない。
そしてその中でも、綾夢が保有する霊力の量は、桁が違っていた。
なので——
『破邪!』『破邪!』『破ー邪ー!!』
こんな風に、三歳の子供のストレス発散として、近場に漂う穢れを片っ端から吹き飛ばしているのだった。境内の穢れも、あらぬ方向へ飛ばされたもやも、まとめて巻き添えを食っていた。
「?この感覚なんだろ」
一瞬、狛狐の方から、これまでとは違う気配が感じられた。
「怪しいと思ったら、……打つべし!」
『破邪!』
キンッ!
弾かれるような音がした。
「あれ?」
放った術が、初めて弾き返された。綾夢は目を丸くした。
『幼き人の子よ…』
低く、重みのある声がした。
『破邪!』『破邪!』『破邪!』
驚きを一瞬で好奇心に変え、綾夢はさらに術を撃ち込んだ。
『まって』
『破邪!』
『待てといっておろう!!』
さすがに声を荒げたその響きに、綾夢はようやく手を止めた。
「お化けが喋った!」
『私はお化けではない』
「つよいおばけなんだきっと」
『話を聞け』
「私が相手になってやる!」
『聞け!!』
「もーなんなのよ、さっさと言えば?」
『圧倒的不敬……』
声の主は、深く一つ息をついたようであった。
『いいか?私はお化けではなく、神である』
『こら、不審な目で見るんじゃない』
「怪しい宗教?」
『違う』
『端的にいうと、私は古来よりこの土地に座しておる、土地神というものだ』
「ふーん」
『だから、払おうとしなくてよい。わかったな』
「んー、やだ!」
『……何故』
土地神の声が、わずかに戸惑いを含んだ。長い時を生きた神にとっても、三歳児の理屈は測りかねる。
「お家のお庭にずっと変な気配するのやだ」
『存外、切実であったな……』
しばしの沈黙。それから、声の調子が変わった。どこか感慨深げな、柔らかいものに。
『そうか。お主には、私を感じ取れるか。このような人の子に出会うのは、実に久しいことよ』
『ふふ、よい。興に乗った』
『人の子よ、その力、もっと磨きたくはないか?』
「え?」
綾夢が、初めて興味を引かれた顔をした。
『その霊力、巴には荷が重かろう。私が、その霊力の使い方を教えてやろうぞ。ゆえに、私を攻撃するでない。扱いに慣れれば、私の気配を疎外することもできようほどに』
『ただし、私の存在は他のものに話してくれるなよ。あれこれと面倒でな』
「んー」
綾夢は、うーんと唸りながら、じっと空を見つめた。
『ふ、流石に信じられぬか。よい、少しずつ——』
「わかったわ!倒さないであげる!」
『……近頃の人の子はすごいものよのう。いや、此奴だけであろうか』
土地神の声に、初めて呆れと感嘆が半々に混じった。
「それで?貴方の名前は?私はなぎあやめ、これからよろしくね!」
『本当に、恐れを知らぬ子よ』
そう呟いてから、その声はふっと、笑いを含んだように和らいだ。
『まぁよい。こちらからも、よしなに頼むぞ、綾夢。我が名はーーー』




