こぼれ話 肆
雑誌を、フワが広げていた。
那岐家の離れの自室は、最近ようやく人間らしく整ってきた。引っ越しやら住所変更やら職場手続きやら、諸々の事務処理がようやく終わった。綾人が手伝ってくれなかったら、もう三ヶ月はかかっていた。
清和は座椅子に座り、綾人から借りた漫画を読んでいる。
フワは床に寝転んで、薄い夏の雑誌を眺めている。ページをめくるたびに、ほへーとかうわぁとか小さい声が聞こえてくる。
「清和!海行きたい!」
「行かない」
清和は漫画からも目を離さず答えた。
「なぁんでぇ!なんで!行こうよ!夏っぽいことしようよ!」
「あんなぁ、誰が好き好んで外に涼みにいくんだよ。ウチにはクーラー様がいらっしゃるだろうが」
「クーラーより山神を敬ってよ!」
「今、僕の中で山神様よりクーラー様の方が信仰心がある」
以前の清和のアパートにはクーラーがなかった。夏は窓を全開にして扇風機を回すだけだった。帰るのが深夜だったのでなんとかなっていたが、昼に部屋にいると死にかけていた。
那岐家の離れに越してきてから初めてクーラーをつけた瞬間の感動は、清和にとって今年最大の体験の一つだ。
「むぅ!」
フワが雑誌をぱたんと閉じた。表紙に「海特集!」と書かれている。
少し間があった。
「……俺、死ぬ前も死んだ後も、山から出たことないから」
声のトーンが変わった。
「……行って、見たかったなぁ」
「ぐっ……」
「清和が嫌なら仕方ないよね……俺、清和からはあまり離れられないし……」
「う……」
生前も、百年以上の地縛霊の時も、海など見たことがない。そんな存在が「見たかったなぁ」と言っている。清和は漫画のページに視線を戻そうとして、戻せなかった。
「う〜〜」
バァン!
悩んでいると、突然扉が開いた。
「フワ殿行きましょう!海!そこの男は簀巻きにして持っていけばいいです!」
彩夢が立っていた。雑誌の表紙と同じくらい輝いた顔で。
「聞いてたの!?」
「うるさい人でなし」
「ひぃ、この感じ久しぶり……」
「フワ殿、フワ殿水着はお持ちではないでしょう?海に行くなら水着でないと!私が選びます!買わせてください!」
「やった!ありがとう!」
「えぇ……」
フワの目がきらきらしている。彩夢の目もきらきらしている。なんかもう止められない気配がした。
「もう、姉ちゃんはしゃぎ過ぎだよ」
廊下から、綾人が顔を出した。
「あ、綾人」
「姉ちゃんがすみません。あ!清さんの水着は俺が買ってあげますね」
「結構だよ!?」
「わかった。行くのは行くよ」
清和は漫画を閉じた。
「だけど!僕は海に入らないから!それなら行っていい!」
「清和、もしかして」
「泳げないの?」
「ギク」
「はっはーん、なぁるほどね」
フワがにんまりした。
「俺!教えますよ!」
綾人が前に出た。
「こほん」
彩夢が咳払いをした。全員が彩夢を見た。
「じゃあこうしましょう。海で霊術師としての訓練を行うわ、特別研修として行きます。この時期の海はちょうどいいのがウヨウヨいるからね」
「え、研修?」
「休暇中加えて勤務時間外ということで、時給百五十パーセントです」
清和の目が光った。
「行きます、先輩。ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」
「清さん……」
「清和ぅ……」
「私、貴方のそういうとこ好きよ。後輩君」
「ねぇ清和、貯金結構あるんじゃなかった?」
「ばっきゃろう、金は稼げる時に稼ぐんだよ。通帳に額面が増えていく快感をしらんのか」
「それあんま健全じゃないと思うよ?」
「あ、綾人も訓練ね」
「げっ!」
〜〜〜〜
浜辺は、人がいなかった。
波打ち際に、遊泳禁止の旗が並んでいる。
「……まぁ、もう九月だからな」
「クラゲはいないし大丈夫でしょ」
彩夢はそう言いながら、手際よく日傘を立てた。大きなクーラーボックスを砂の上に置いて、敷物を広げる。どこから出したのか、折り畳み式の椅子まである。
(わぁ〜!すなっ!砂だ!)
フワが清和の中に入った。清和の体で、砂浜に降りる。靴を脱いで、素足で、ぎゅっぎゅっと砂を踏んでいる。
「初めて?」
「うん!ふかふかしてる!清和、ふかふかしてるよ!」
(そうか、暑いから日陰でな)
清和は体の主導権を取り、日傘の日陰に入ろうとした。
「ちょっと待って」
彩夢に腕を掴まれた。
「あなたの仕事はこっちよ」
彩夢が指差したのは、日差しが照りつける浜辺全体だった。
「この浜が遊泳禁止になった理由は時期はずれなだけじゃない。ここ数年で溺死が相次いだから。霊的に言えば、その魂が成仏せず引き留めているせいで人が引き込まれている。今日はその排除ね」
「……それフワなしでやるの?」
「研修よ。自立訓練」
「研修……」
清和は数珠を見た。数珠を見てから、日陰の椅子に座ろうとしているフワを見た。
「行ってきます先輩」
「ええ、頑張って後輩君」
「綾人!あなたは今日、『陰』と『人払』の二重維持ね。さっきから観光客が来てるでしょう、一人でそれを維持しながら訓練を続けなさい」
「え、同時に!?」
「二つ同時が当たり前になれば、他の術を重ねる基礎になる。この二つは性質が似てるからやりやすいの」
「……わかりました」
綾人は深呼吸した。目を閉じ、集中する。
「それじゃあ俺たちは——」
「見てますよ、二人を。監督として」
「監督者にしては椅子が豪華すぎませんか」
「ふふ、頑張ってね後輩君」
〜〜〜〜
清和は、一人で浜辺を歩いた。
足元が、ぐずぐずしている。砂が靴に入ってくる。日差しが、首の後ろを焼く。
数珠が、じんわりと熱を持ち始めた。
(近い)
爽やかなはずの海の空気に、淀んだものが混じっている。穢れが積み重なって空気ごと重くなっている。霊術を覚えてから、こういうものが感じられるようになった。清和は近づいていった。
パチン。
弾けた。
また近づく。またいる。また弾く。まだ形になっていない穢れを払っていく。
振り向くと、彩夢の日傘の下でフワが砂に絵を描いていた。彩夢が何か飲んでいた。
「……楽しそうだな」
(清和!こっちおいでよ!一緒に遊ぼうよ!)
「無理、仕事中」
(えぇ〜)
フワの声が、縁を伝って響いてくる。
フワの神通力が戻ってから、フワの活動範囲が広がった。元々清和から二、三メートルしか離れられないはずだったが、清和の霊力が上がるにつれて縁の糸をそこそこ伸ばせるようになった。
こうして離れていても、縁を伝わせれば言霊が届く。糸電話みたいなものだ、とフワは言っていた。
もう一体、弾く。
遠くで、綾人が腕を広げて立っていた。術を維持するための姿勢らしいが、傍から見ると元気玉のポーズだった。
額に汗がある。
「えっと、こう、か?」
(綾人、大丈夫か?)
「なんとか……二つ同時って、思ったより……ふぁあ。あ、俺も海に……え、これどうやって話して?」
(僕と綾人の縁に言霊を響かせてるんだ。糸電話みたいに)
「そうでした、清さんはフワの影響で人の縁を見やすいんでしたね」
(そ、感覚でやってるから彩夢ちゃんも得意じゃないって言われたときはびっくりした)
「姉ちゃんと清さんが規格外なだけで、俺がスタンダードだからね?」
パチン。パチン。
清和は黙々と、浜辺を歩き続けた。
〜〜〜〜
二時間後。
「終わりました」
「お疲れ様」
清和は彩夢の前に立った。汗だくだ。
彩夢がクーラーボックスからジュースを一本出して投げてよこした。受け取って、一気に飲んだ。
「ビールが飲みたい」
「勤務中よ」
(清和お疲れ様!なんか強くなった感じがする!)
「お前のおかげで来る前より強くなった自覚がないと困る」
(えへへ)
「フワ、楽しかったか」
(うん!砂で城作ったし、珍しい貝もあったし、彩夢ちゃんにいろんなもの食べさせてもらったし!)
「……俺が働いてる間に随分と満喫したんだな」
「研修の成果を上から見守っていたのよ」
「そういうことにしておきます」
「待て。どうやって食べたんだお前」
「彩夢ちゃんの身体に入ったの。清和とはいろいろ感覚が違ったよ」
「新感覚だったわ、また来てくれていいのよ」
「霊力が強い分、受け入れてくれたら馴染みやすいんだね」
清和は彩夢と何も言わずに少し目が合い、それから何も言わなかった。
綾人がよろよろと近づいてきた。
「……お疲れ、綾人」
「ふぁ……二重維持、難しいです……」
「よく頑張ったわ。では最後の課題ね」
「まだあるの!?」
「泳いできなさい、術を維持したまま」
「えぇ!?」
〜〜〜〜
(清和!俺も泳いでみたい!貸して!)
「……フワが泳げるの?」
(やってみないと分からない!)
清和は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ短時間だけ」
フワが入ってきた。
フワが、清和の体で、波打ち際に向かった。
波が足元に来る。冷たい。
(おわっ!)
(フワ!?)
(ちめたい!でも気持ちいい!清和これ気持ちいいよ!)
(そうか、よかったな)
フワが膝まで入っていった。波が来るたびに小声が漏れる。それからフワは、腰まで入っていった。
(よし、泳ぐよ!)
(え、ちょっとまて)
フワが両腕を広げて、前に倒れた。
どぼん。
(ひゃ!)
(だから言っただろう!僕は泳げないって!)
(泳げるかなと思って!)
(思っても泳げないものは泳げない!)
フワが清和の体で、浅い海底に手をついた。立て直そうとする。腕が動く。足も動く。でも前には進まない。
(難し!)
(そりゃそうだ!)
そのままばちゃばちゃと、腰の高さの水の中で謎の動きを繰り返すこと数分。
「清さん大丈夫ですか!?」
綾人が駆け寄ろうとして、砂に躓いた。
「あ、俺今術維持してるんだった——」
綾人が足を止めた。泳いで助けに行くには術の集中が保てない。かと言ってやめると観光客が来てしまう。
「俺、どうすれば……」
彩夢が日傘の下から見ていた。
「まぁ、腰の高さの水だから溺れはしないわね」
(清和やっぱり下手だー)
(分かってる!)
〜〜〜〜
「バーベキューにしましょう」
彩夢が立ち上がった。
全員が安堵した。
「あったんですか道具」
「クーラーボックスの横にあるわよ。綾人、術はそろそろ降ろしていいわ。人がいない時間帯に入ったから」
「ありがとうございます……」
綾人の肩から、ふっと力が抜けた。顔が一気に緩んだ。
「じゃあ、綾人。準備よろしく」
「はい」
フワが清和の体から出てきた。
「ばちゃばちゃしたよ!楽しかった!」
「楽しかったのか」
「うん!でも確かに泳げなかった」
「そりゃそうだ」
「今度ちゃんと習う?」
「……やだ」
木炭に火がついた。
波の音と、肉の焼ける音が混ざった。
日が傾いて、空がオレンジになっていく。人払の術が解けた浜辺に、ぽつぽつと人が戻ってくる。でも四人がいる場所は、なんとなく少し離れた場所にある。
(海、見たかったんだ)
フワがぽつりと言った。
波を見ている。日の光が海面に散っている。
「見れてよかった」
(うん)
「次は泳げるようになってから来るか」
(清和が?)
「お前が」
(俺は清和いないと来られないじゃん)
「じゃあ俺も覚える」
フワが、にっこりした。
「お肉焼けましたよ!」
綾人が声を上げた。
「今いくよ」
海風が、髪を揺らした。




