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社畜青年と亡者少年  作者: 月凪


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肆話

 

 数日が経った。


 清和の生活は、大きく変わり始めていた。


 まず、怒鳴り声がなくなった。


 毎朝飛んでくるはずの声が来ない。誰かが机を叩く音も来ない。コーヒーが「ぬるい」と言われることも、自分の担当でない書類を押しつけられることも、深夜に片道一時間の山道を運転させられることも、もうない。


 代わりに、オフィスはどこか間の抜けたように穏やかになった。


 残業が減り、雑談が増えた。定時になると「お先に」という声があちこちから上がるようになった。伊東課長が社長として指揮を執り、低い声で淡々と業務をさばいた。一度も怒鳴らなかった。


(あの人がいないとこんなに静かでスムーズなのか)


 清和はある日の退社時、ビルを出たところで空を見上げ、思わず立ち止まった。


 まだ、明るかった。


 夕方の空に、薄いオレンジの光が残っている。鳥の声がする。遠くで自転車のベルが鳴る。


 当たり前のことが、なんだかひどく久しぶりに感じられた。


〜〜〜

 

 家に帰ると、フワがいた。


 今日はソファではなく、床に座って何かを眺めていた。昨日清和がコンビニで買った袋菓子の袋を手に持ち、まじまじと見ている。


「ただいま」


「おかえり清和!」


「何してる」


「これ、どうやって開けるの?」


「食べられないだろ」


「いいから、いいから」


 清和はため息をついてから、袋の切り口を指で裂いた。


 パリン、という乾いた音。


 フワは目を輝かせた。


「あ! そこから!」


「……そうだよ」


「昔はそういう袋なかったから知らなかった」


 昔、という言葉の重さが、清和にはまだうまく測れない。フワにとっての"昔"は、おそらく自分の"昔"とはまるで年代が違うのだろう。


「フワって、いつの時代…」


「おじゃましまーす」


「は。」


 フワが清和の顔に触れ、おでことおでこを合わせた。


 一瞬だけ、フワの瞳がひどく近く見えた。深淵のような黒い瞳が、すぐそこにある。それから——視界がぐらりと傾いた。


 体が、動かなくなった。


(は、な、なんだこれ!)



 清和の意識はあった。思考もあった。


 でも、自分の体が自分のものではなくなっていた。まるで自分がどこかに押し込められて、操縦席に別の誰かが座ったような感じだ。体の端っこで、清和は焦りながらも、なぜか奇妙に落ち着いてもいた。意識だけあって、どこにも行けない。


 フワが清和の体を使って左手を上げた。


「よ!」


(……あ、あれ俺の手だ)


「ほ!」


 万歳する。


(おかしい、なんで万歳してるんだ、俺は万歳なんてしたくない!)  


「上手くできたー」


(どういうことだこれ!おい!)


「清和ぅ〜みてみて! 清和の身体動かしてるよー」


(おい! フワ!)


「視界がたかーい、飛ぶのとは違うねぇ」


(聞いてんのか! こら!)


「聞いてる聞いてる、おお、体温がある、わぁ、足に毛が生えてる〜ヒゲも」


(おい、人の身体いじくるんじゃねえ!)


 フワが清和の体でその場をぐるりと見回す。首の動きが、微妙に普段と違う。角度が少しおかしい。


 景色が自分の記憶より高いところから見えているような、不思議な感覚があった。


「大人の身体だぁ〜、……ズボンの中もちらっと……」


「やめろ!!!!!」


(わあ!!)


 フワが清和の身体から弾かれるように飛び出した。フワの足先が床に触れる前に、清和は自分の身体に戻ってきた。


「はあ、はぁ、なんだっ、たん、だよこれ」


 無性に疲れる。対して動いてもいないのに、長距離マラソンをしたような疲労感がある。膝に手をついて息を整えながら、清和はようやく顔を上げた。


「あ〜ん、残念。まさか追い出されるなんて」


「お、まえ、はぁ、はぁ、なに、したんだよ」


 フワは不満そうに唇を尖らせながら、床に腰を下ろした。


「いやぁ、この前から清和のご飯を見てたんだけど匂いだけじゃ満足できなくてぇ。どーにかして食べたいなぁって思ってたら。かなーり前に山でいたずらしてた人をおどかしたことを思い出してね」


「山の危ないとこまで入ってたから、ダメだよって教えてあげようとして、連中の一人に入り込んで教えてあげたんだよ」


「その時は上手くできなくて、身体の使用権が俺半分その人半分みたいな感じで変な感じになっちゃったんだけど。今回はすごく上手くいったよ」


 清和はゆっくりと深呼吸した。


「は、はぁ、よくわからん。が、とりあえずその人がとんでもないホラー体験をしたのは分かる」


「ま、とりあえず、清和の身体貸してくれない? ご飯食べたい」


「やだよ、なんか怖い」


「ええ! お願いお願い! 少しだけ、少しだけだからぁ、清和の身体貸して!」


「うう〜、うるさい」


 フワが両手を合わせて清和を見上げる。くりくりとした黒い瞳が、うるうると訴えるようにまっすぐこちらを向いていた。


「お前に身体貸したらこんなに疲れるんだろ? 嫌だよ」


「それは違う〜! そんなに疲れてるのは無理矢理俺を追い出したから! ていうか、追い出せるのおかしいからね!」


「抵抗しないでくれたら、入る前と変わらないはずだよ」


「…そう、なのかぁ?」


「うん、だから身も心も俺に委ねて? 優しくするから」


「なんか言い方がいやだ!!!」


「ええ〜」


〜〜〜〜


(はぁ、結局貸してしまった)


「んふふ〜」


笑顔の自分、キモすぎる。


(ほら、ご飯食うんだろ、早くくっちまえ)


「んー、まって、えい!」


 フワin清和がベッドにダイブした。


(おい、何してんだ!)


「あはは、ふかふかだぁ」


(落ち着け、部屋がせまい!)


「ごろごろ〜ごろごろ〜」


(おい、バタバタするな、見てらんねぇから!)


「……クンクン、ねぇ清和。このお布団いつ洗ったの?」


 清和の意識が顔を背ける。今はそういうことはできないはずなのに、なんとなくそういう気持ちになった。


(……そんなことより、ご飯食べな)


「明日、お天気だったら干しとくね?」


「……よろしく」


〜〜〜〜


 フワは清和の体を使って台所に向かい、コンビニ弁当のフィルムを剥がした。手つきが少しぎこちないが、ちゃんと動いている。


「おーいしぃ!! ハンバーグって美味しいね!!」


(そうか、よかったな)


 食事を面倒に感じていた清和には新鮮な反応だった。冷えたコンビニ弁当でここまで喜べるものか。一口食べるたびに、フワの喜びが清和の中に共鳴するように伝わってくる。嬉しい、おいしい、というただそれだけの感情が、思ったより温かかった。


「この、ポテチってのはしょっぱいけど癖になるし、グミは歯応えがあって甘くて美味しい!」


(こら、ご飯食べ終わってからお菓子にしろ)


「はーい」


〜〜〜〜


「ねね、お風呂入ってみたい!」


(ええ、やだよ)


「まぁ、入るんだけどね」


(ここで脱ぐな!)


「わーい!」


(せんっまい湯船にダイブすんな!)


「いっだい」


 フワ本来の姿ならともかく、清和の身体では湯船に身体のあちこちをぶつけてしまっている。浴室に鈍い音が響いた。


(僕の身体ぁ、ああぁ、これ明日に響くやつぅ)


「……あったかいやぁ」


 フワの声が、静かになった。さっきまでの弾んだ声から、急に落ち着いた。お湯の音だけが、浴室にゆったりと響いている。


(フワ?)


「あ! お風呂の前に身体を洗わないと!」


「清和、身体洗うのコレ?」


(ああ、ボディソープがその青の、髪洗うのが水色のやつな)


「まず頭から!」


ガシャガシャガシャ


(出し過ぎ! 出し過ぎ! そんなにいらない!)


「んー、あれ、清和ごめん」


(んあ?)


「髪洗ってたら、髪の毛抜けた」


(気にすんなそーいうもんだ)


「そうなの? ていうか、清和の髪キシキシしてたけど、シャンプーがあってないんじゃない?」


(それが一番安いんだよ。てかなんでそんなこと知ってんだ?)


「テレビで美容についてやってた、きゅーてぃくる?がなんとかって」


(ふっ、そういうのはオシャレな人がするものだ。俺には不要だ)


「……このぼでぃそーぷ、なんか肌ピリピリするよ?」


(ああ、僕アトピーで、肌が少し弱いんだが。どれを買えばいいのか分からなくてテキトーに買った)


「清和、お金ないの?」


 泡を流し切らないうちに、湯船につかる。


(失礼な。僕が今まで何時間残業したと思っているんだ。通帳には残業代がたんまりあるさ)


「じゃあ、なんで買わないの」


(選ぶの面倒)


「うーんむ??」


 フワの困惑が、清和の意識の中にじんわりと伝わってきた。言葉にならない「なんで?」という気持ちが、そのまま流れ込んでくる感じ、知らんぷりをする。


〜〜〜〜


「おー、身体が帰ってきたぁ。本当に疲労感がない」


 確かに、さっきとは比べ物にならないくらい楽だった。フワの言い方に問題はあったが、内側から追い出さずにいれば自分の体に戻ってくる感覚は、そこまで不快ではなかった。


「ていうか、風呂や飯をフワにしてもらうのいいかもな。いろいろ楽だわ」


「清和ぅ」


「?」


「清和ってダメな大人なんだね」


「あん?」


フワは清和をまっすぐ見ながら、続けた。


「ご飯面倒がって、お肌に合わないもので洗って、布団も洗わなくて」


「……」


「もっとちゃんとしないとだよ?」


 清和は少しの間、フワを見た。


 五、六歳に見える顔が、真剣な表情をしている。百年以上生きた何かに「ちゃんとしなさい」と言われているのは、なんとも形容しがたい気持ちだった。おかしくもあり、どこかぐさりとくるものもあった。


「……わかった」


「本当に?」


「……考える」


「むー」


〜〜〜〜


 翌日。


 仕事を終えた清和は、帰りにコンビニへ寄った。


 フワはいつの間にか隣を歩いていた。指切りをした夜から、フワは山を離れてもついてくるようになった。清和の家と清和自身から半径二、三メートル圏内なら自由に動けるようだ。


 霊というわりには随分と行動範囲が狭いな、とは思ったが、フワ本人は「お兄さんにくっついてればどこでも行けるから大丈夫」とあっさり言った。本当かどうかは分からない。


 他の人間にはフワは見えないらしく、通り過ぎる人は誰も反応しない。清和だけが見えていた。


「今日は何買うの?」


「飯と、洗剤。あと飲み物」


「…また安いやつ?」


「ちょっと変える」


「選んであげる」


「よろしく」


「その代わり甘いの買って」


「それが狙いか」


 自動ドアが開く。冷気と蛍光灯の白い光が流れ出てくる。


 コンビニの中は騒がしかった。BGMが流れ、冷蔵ケースの機械が低く唸り、レジの打鍵音が規則的に響く。フワは入るなり目をきらきらさせ、陳列棚を端から端まで眺め始めた。


「これは?」


「カップ麺」


「これは?」


「エナジードリンク。飲みすぎると体に悪いやつ」


「……わかった、これは買わない」


 清和は弁当を選びながら、横目でフワを見た。レジ袋のコーナーで立ち止まり、袋の素材をじっと観察している。


(大丈夫か、こいつ)


弁当と洗剤と緑茶を手に取ったところで、フワが割り込んできた。


「あ、シャンプーとボディソープこれね。てかここ種類少なくない? ネットの方が多かったよ」 


 昨日、清和が仕事に出ている間にノートパソコンを操作していたらしい。帰宅したら画面が開きっぱなしになっていて、検索履歴に「ボディソープ 乾燥肌 おすすめ」「シャンプー キシキシ 原因」「アトピー 肌に優しい 洗い方」がずらりと並んでいた。


(コイツ、いつのまにかネットサーフィンを覚えやがった)


 指差した先に、ドラッグストアほどではないが、いくつかのスキンケア品が並んでいた。フワが指定したのは清和がいつも買っているものより少し値段が高かったが、払えない金額ではない。


「……わかった」


「おっ、すなおだ」


 弁当と洗剤と緑茶とフワが選んだシャンプーを持ち、レジに並んだ。


「袋はよろしいですか?」


「あ、エコバッグが……」


 ごそごそとカバンを漁っている間に、フワが横から顔を出した。


「この棒みたいな機械に押しあてるとお金払えるんだよね。さっきのお客さんがやってた」


「静かにしてろ」


「え、おれの声、店員さんに聞こえてないよ?」


「……そうだったな」



〜〜〜


 夜の国道沿い、コンビニを出てすぐの路地。


 商品の入ったエコバッグをぶら下げながら、清和はいつも通りの道を歩いた。


 その時だった。


(……?)


 電柱の陰が、おかしかった。


 夜の影なんて、どこにでもある。街灯の光が当たれば伸び、建物の隙間では濃くなる。それ自体はおかしくない。でも——その影は、光の方向と関係なく、そこにあった。電柱の影にしては幅が広い。人のシルエットにしては輪郭が曖昧だ。


 そしてそこにある何かは——動いていた。蠢くように、ゆっくりと、地面を這うように。


 清和の足が、自然と遅くなった。


(これ、昨日は——なかった)


「みちゃだめ」


 フワの声が、珍しく低かった。


 振り返ると、フワがいつもと違う顔をしていた。笑っていない。黒い瞳で、電柱の陰を真っ直ぐに見ている。お気楽でそわそわした普段の気配が、どこかに消えていた。


「フワ、あれ——」


「し」


 清和は正面を向いた。


 心臓が、数拍早くなった。

 

「なんなんだ、あれ」


「……ちっさいやつ。でも、ちゃんとしたやつ」


「ちゃんとしたって、何が」


「怨念の、おこぼれ」


 怨念の、という言葉で、清和の背中が冷えた。


「……誰の?」


「いろんなのの」


「……形になりきれてないから、今はまだ大丈夫。でも——」


 フワが言葉を切った。


(こっちを狙ってた? 意思はないはずなのに)


「でも」と続けようとしたその瞬間だった。


「そこで止まれ」


 声が、後ろから飛んできた。


 清和は振り返った。


 いた。


 夜道の街灯の下に、制服姿の男子高校生が立っていた。


 黒髪短髪、身長は清和より少し低い。学生鞄を斜め掛けにして、右手に数珠を握り、左手には護符らしき紙が数枚。まだ高校生と分かる細い体つきに、紫紺の瞳の目つきが妙に鋭かった。


「……君、誰?」


那岐 綾人(なぎ あやと)


 高校生は間を置かずに名乗った。


「払い屋だ」


 一瞬の沈黙の後、清和は頭の中で「払い屋」という単語を静かに繰り返した。


(払い屋)


(どう見ても十六くらいなんだが)


 綾人は電柱の影と清和の間に目を走らせながら、続けた。


「お前は今見えているものが何か分かっているか。そして——」


 綾人の視線が、清和の真横に止まった。


フワのほうを見ていた。


「お前の隣にいるそれが、どれだけ異質な存在か分かって連れ歩いているのか」


 清和はフワを見た。


 フワはにこにこと笑っていた。


「……僕、やばいの?」


「お前は黙れ……ってこれ見えてるのか?」


「やだー」


「……っ」


 綾人が数珠を握り直した。その手が、微かに緊張している。


 電柱の影が、じわりと動いた。さっきより、わずかに輪郭が濃くなっている。


(清和、まずいなぁ、これ)


(どっちの意味でまずいのかは分からないが)


「あの」


 清和は綾人に向き直った。


「とりあえず、話を聞かせてもらえますか。立ち話もなんですし」


 綾人は一瞬、面食らったような顔をした。


「……その前に聞く。お前は一般人か」


「そうですよ」


「なぜそれが見えている」


 清和は少し考えた。


「色々ありまして」


「色々、答えによっては——」


「色々あったんだよ」


 フワが答えると、その圧に綾人はまた黙った。


 フワが「えへへ」と笑い、清和の袖を引っ張る。


 電柱の影は、じわりと動いていた。


「わかった。場所を移そう」


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