参話
僕は「君は将来何になりたい?」という質問が嫌いだ。
幼稚園の頃の夢は、魔法使いだった。
風に乗って空を飛んだり、大きな火球を作って悪者をやっつけたり、不思議な魔法薬を作ったり。
心が弾み楽しそうだったから。
胸躍り憧れていたから。
でも、誰にも言わなかった。
子供の世界は残酷だ。男なのにそんな女の子みたいなことを言えば、きっと笑われると思ったから。だから僕はその夢を口の中で転がすだけにして、誰にも渡さなかった。
小学生の時、宿題で将来の夢を書かされた。
本当は漫画家だった。
剣を持ち、使命を背負ったヒーローが世界を救う物語を、ノートに書いていた。消しゴムで何度も消して書き直した、あのぼこぼこになったノートを、今でも思い出せる。
でも僕は絵が下手だった。
誰にも見せたくなかった。知られたくなかった。
だから僕は、無難に「会社員」だと答えた。
中学生の時、三者面談で将来就きたい仕事はあるかと聞かれた。
僕の夢は小説家だった。
でも隣に座る母の前では言えなくて、「特にないです」としか答えられなかった。
きっと、もっとちゃんとした夢にしなさいと言われると思ったから。
誰にも見せなかったけれど、やめられなかった。夜、家族が寝静まった後、布団の中で懐中電灯を当てながら、ノートに文字を書き続けた。誰にも届かない言葉を、誰にも見せないために書いていた。
僕は夢を、心の奥に隠し続けた。
高校生の時、進路面談で「どの大学に行きたいか」と聞かれた。
少しだけほっとした。
もう、夢を聞かれなくて済むからだ。
そして大学三年になった僕の前に、『就職』というたった二文字の壁が立ちはだかった。
高校までは違った。
最後まで道を用意してくれる。
でも大学は違う。
自分で探して、自分で見つけて、自分で決めなければならない。
いつの間にか、僕は夢を見られなくなっていた。
自分のしたい仕事がわからない。
給料も、勤務形態も、福利厚生も、どれを見ても惹かれない。
これから四十年、
下手をすれば五十年、六十年。
自分の生きてきた二十年より倍の年月——人生のほとんどを、労働という鎖につながれる。
午前零時に解ける魔法なんてない。
楽しいことを考えただけで空を飛ぶことも、奇跡が起きて人形が動き出すこともない。
だから僕は、現実を見なければならない。
〜〜〜〜〜
目が覚めた時、清和は自分のアパートのベッドの上にいた。
ベッドサイドの時計は6時を示している。アラームより一時間早い。というより、まともに眠れた気がしなかった。まぶたの裏がざらつく感じがする。こういう日に限って、夢だけはやたらと鮮明に残っていた。
(早く出なければ)
身支度を済ませながら、清和は昨日の夜のことを思い出さないようにした。思い出さないようにすると、余計に思い出す。あの音が、また耳の奥に引っかかる。
ゴツン、ゴツン。
清和は洗面台の水を全開にした。流れる水の音で、頭の中の音を少しだけ押し流した。
いつもと同じバスに乗り、いつもと同じ道を歩き、いつもと同じオフィスのドアを開けた。
オフィスは、いつもと同じだった。
コピー機の唸る音、キーボードの打鍵音、電話の呼び出し音。同僚たちが笑い、雑談し、朝のコーヒーを飲んでいる。窓の外では車が行き交い、遠くで工事の音がしている。何一つ変わっていない。
一つを除いて。
社長席に、課長が座っていた。
「おはよ、巫部。昨日どうだった、久田工房」
隣の先輩が声をかけてきた。
「……あ、はい。まあ、色々と。書類に不備がありまして、また後日に……」
「そうか、大丈夫だとは思うが社長に一応に報告しとけよ?」
「え」
「ほら、今手空いてそうだし」
先輩はそう言って社長席に座る『伊東』課長のほうを顎で示した。それ以上でも以下でもない一言で、すぐに自分のモニターに目を戻す。
「は、はい」
清和は一拍、間を置いてから頷いた。
〜〜〜
社長席となったデスクに近づくのは、思ったより足が重かった。
伊東課長は五十代後半、温厚で朗らかだが口数が少ない人だった。普段は酒井の怒鳴り声の後ろで、静かに書類を処理している。そのイメージのまま、今は社長席に座っている。
「失礼します。久田工房の件でご報告が……」
「ああ、巫部くん」
伊東課長は顔を上げた。穏やかな表情は変わらない。
「昨日はご苦労様。書類の不備があったと聞いたよ。すぐに差し替え版を送れるよう、確認しておいてくれるかい?」
「はい、対応します」
「酒井社長には追って……」
伊東課長が少し沈黙した。
「……連絡がとれたら、私から話を通しておくよ」
「はい」
清和は頭を下げ、自分のデスクに戻った。
"連絡がとれたら"。
その一言が、頭の中でゆっくりと沈んでいった。
〜〜〜
清和は自分のデスクに着いた。
パソコンを起動させる。画面が光り、いつものデスクトップが映し出された。清和はキーボードに指を置いた。でも何も打てなかった。
山道。転落音。脈のない首筋の冷たさ。影。そして——指切り。
夢ではなかった。
社長が崖を転がり落ちる音。
あの音だけが、頭の中で繰り返していた。
オフィスが騒がしいのに、どこかが静かだった。
何の音が足りないのか、最初は分からなかった。しばらく考えて、ようやく気づく。
怒鳴り声だ。
毎朝必ずどこかのタイミングで飛んでくる、あの声。「巫部!」「使えない!」「何してる!」。耳にタコができるほど聞いたはずの、あの声が——今日は、来ない。
来るはずがなかった。
それがなぜか、じわじわと怖かった。
昼になっても、酒井は来なかった。
午後になっても、来なかった。
「連絡取れないねえ」と誰も呟かない、誰もそれ以上追わなかった。オフィスは特に何かが起きたわけでも、止まったわけでもなく、ただ淡々と動き続けた。
誰も酒井を気に留めない、元から知っていない。
清和はずっと、画面を眺めていた。
仕事をしているような格好をしながら、実際はほとんど何も頭に入っていなかった。
電話が鳴るたびに、体が強張った。
ドアが開くたびに、肩が揺れた。
でも何も来なかった。警察も、刑事も、こちらを指差す誰かも。
ただオフィスの音が、いつも通りに流れていた。
(これが普通なのか)
(社長がいなくても、会社は動く)
(僕がいなくても、たぶん動く)
頭の隅でそんなことを考えながら、清和は画面の文字をなぞった。
定時を十五分過ぎたところで、清和はそっとバッグを肩にかけた。
「お先に失礼します」
返事の声は、清和の耳に届かなかった。
〜〜〜
アパートに帰る道すがら、清和はずっと考えていた。
昨日の山の上での指切りは、夢か現か。
そもそも「一緒に住む」というのは、霊が部屋に入ってくるということなのか。
(というか、昨日どうやって帰ったんだ、俺)
考えてみると、山を下りてから車に戻るまでの記憶が曖昧だった。フワが何かしたのか。それとも自分が無意識のうちに歩いたのか。どちらにせよ、今朝ベッドで目が覚めた時、スーツだけが床に脱ぎ捨てられていた。
(鍵は……持っていないはずだ)
(いや、普通に考えたら鍵とか関係ないだろ……)
アパートの前に着く。
外から見るかぎり、変わったところはない。四階建ての古びた建物、三〇二号室。郵便受けも、表札も、そのままだ。
ドアを開けた。
テレビの音がした。
「あ、おかえり清和!」
部屋の中央のソファの上に、フワが正座していた。画面には子供向けのヒーロー番組が映っている。昨日と同じ赤いTシャツ、同じ短パンだ。
清和は玄関で固まった。
「……お前、鍵、どこから」
「そんなのいらないよ?」
フワは立ち上がり、「ほら!」と言いながら——そのまま左半身を壁に埋めてみせた。
左半身が壁の中に消え、右半身だけがこちら側に残っている。
数秒後、すっ、と戻ってきた。
「こういうの」
「……そうか」
清和は一瞬だけ目を閉じ、受け入れた。
フワはあっけらかんとソファに戻り、また画面に視線を戻した。
「ねえこれ見てよ、このヒーロー強いよね。このロボがさ——」
「待って」
清和は靴を脱いだ。ゆっくりと、落ち着け、と自分に言い聞かせながら。
「まず確認させてくれ。お前、今日ここに来て、自分でテレビをつけたのか?」
「うん」
「もしかして、ずっと?」
「うん」
(電気代……というか、そこじゃなくて)
「霊が物理的にリモコン押せるの?」
「無機物ならできる人とできない人いるよ。おれはできる」
「あ、そう……」
「ねえ早く来てよ、主人公が変身するとこだよ」
フワがソファをぽんぽんと叩く。
清和はそれを眺めながら、鞄を床に下ろした。
昨日、山の中で呪文を唱え、社長を影に飲み込ませ、空中に立ったあの存在が、今、自分の部屋のソファでヒーロー番組を見ている。
なんの整合性もなかった。
「……お前、ご飯は?」
思わず聞いていた。
フワは首を傾けた。
「食べられないよ。霊だから」
「そうか」
「でも匂いはわかる。なんかいい匂いする」
「……コンビニ弁当だよ」
「へえ! 今のご飯って透明な箱に入ってるんだね」
今の、という言葉が引っかかった。いつの時代の子なのか、という問いは、今夜はとりあえず保留にすることにした。
清和はそのまま台所に向かい、電気をつけ、やかんを火にかけた。水が温まる音がする。隣の部屋からはテレビの音と、フワが何かに感嘆するような小さな声。
弁当のフィルムを剥がしながら、清和は考えた。
(これが、始まるのか)
「ねえ清和」
フワが台所の入り口から顔を覗かせた。
「なに」
「明日も仕事?」
「……まあ、そうだな」
「何時に起きるの?」
「七時」
「朝、テレビつけていい?」
清和は割り箸を手に持ったまま、しばらくフワを見た。霊が、朝のテレビの許可を取っている。
「……いいよ」
「やった」
フワは嬉しそうに戻っていった。
テレビの音量が、少し上がった。
清和は弁当を持ってソファに腰を下ろした。フワが隣で画面を指差しながら何か言っている。変身シーンが終わり、ヒーローが必殺技を放つところだった。
賑やかだった。
一人暮らしをして三年、この部屋でこんなに賑やかだったことはなかった。
それが今は、死んだナニカのせいで賑やかだ。
(全然笑えない)
と思いながら、清和は弁当に箸をつけた。
〜〜〜
「もう寝る時間だぞ」
23時を過ぎたところで、清和はテレビのリモコンを手に取った。フワは無言だった。文句を言うかと思ったが、何も言わない。ただ暗くなっていく画面をしばらく眺めていた。
「……」
夜、清和はベッドに入った。
消灯すると、部屋は静かになった。
「一緒に寝よー」
布団が少し、沈んだ気がした。
「うお、はぁ」
「えへへ」
目を閉じる。
しばらくして、気づいた。
静かだ。
ただ静かなだけなら眠れる。
だがフワがいるはずの布団の静けさは、普通の静けさではない。気配はある。確かにそこにいる感じはある。なのに——形がない。
呼吸音も、寝返りの気配も、何もない。
当たり前だ。霊なのだから。
でも百年以上、誰の声も聞こえないこの山で、ずっと一人でいたのだ、と——清和はなんとなく思った。
(ずっとひとりだったから、つまんなくて)
昨日の言葉が、今になって耳に戻ってくる。
フワがソファをぽんぽんと叩く音。
テレビの音量が上がった音。
「やった」という、子供みたいな声。
清和はそっと、隣にある気配を腕で囲んでみた。
感触はない。体温もない。ただ何かがある、という感じだけがする。
ーーなのに
(湯たんぽ、みたいだ)
不思議な安心感に身を委ね清和はゆっくりと目を閉じた。
今夜は、少し眠れそうな気がした。




