弍話
清和は固まっていた。
いくら時間が過ぎただろう。三十分か、一時間か、それとも五分か。
分からない。
懐中電灯が、足元の土の上に落ちたまま、細い光を放っている。崖の下、数メートル先に酒井の体がある。
動かない。
分からない。
音が、なかった。
さっきまであれほど煩かった虫の声も、風の音も、何もかもが消えてしまったような静けさだった。世界ごと息を止めたみたいに、ただ黙って清和を包んでいる。ただ黙って——というより、見張っているようだ、と清和はぼんやりと思った。
この暗さと静けさが、自分を逃がさないために、そこにいる気がした。
分からない、分からない、分からない。
その静寂の中で、清和の心臓の音だけがやたらと大きく響いた。血液が耳元を通るたびに、ドクンという音が頭の中で反響する。体の内側だけが騒がしかった。その音だけが今、清和がまだ生きていることを教えてくれていた。
どくん。どくん。どくん。
(落ち着け、落ち着け僕)
(事故だ、事故なんだ、僕は手を伸ばした、僕は——)
——落ちろ
思ってない!!
どくん。どくん。
「みーちゃった」
清和は振り返った。
誰もいない。懐中電灯の光が届く範囲に、木々が並んでいるだけだ。
「みーちゃった」
今度は右から聞こえた気がした。清和は右を向いた。
やはり、誰もいない。木の影が、懐中電灯の光の先でゆらりと揺れる。
(空耳だ。気が動転してるだけだ)
「こーろした、こーろした」
今度は、すぐ後ろから。
清和はゆっくりと、振り返った。
いた。
木の根元に、子供が座っていた。
見た目は五、六歳といったところか。赤いTシャツに短パンという、真夏の公園にいてもおかしくない格好で、真夜中の山道にぽつんと座っている。胸元のTシャツにはヒーローらしき絵が描かれていた。その子供の笑顔は、この状況には似合わないほど屈託がなかった。
「先生にいってやろ!」
歌うように言って、子供は清和を見上げた。にこにこと笑っている。その笑顔と、今この状況と、この山の暗さが、清和の頭の中でうまく繋がらなかった。
「……君、どこから来たの」
我ながら間抜けな第一声だと思った。そんな場合ではないことは分かっている。ただ、他に言葉が出なかった。
子供は答える代わりに、また歌い始めた。
「いーけないんだー、いけないんだー——」
「ちょっ、待って待って」
清和は思わず手を振った。
「わかった、聞こえてる。聞こえてるから歌うのやめて」
子供は口をつぐんだ。そしてまた、にこにこと清和を見上げる。
黒目がちな瞳だった。深淵のように真っ黒だ。懐中電灯の光を受けても、その瞳はほとんど光を返さなかった。吸い込むように黒い目だった。子供らしい丸い顔に、なぜか妙に落ち着いた目が乗っかっている。目だけが、その体に似合っていない。
「……お兄ちゃん、やっちゃったね」
「…………」
「みてたよ」
「…………」
清和は額に手を当てた。
「あのうるさいおじさん、壊れたお人形さんみたいになってるねー。あは、水風船みたい」
物騒なことを、あまりにも明るい声で言う。
(まず考えろ。目の前の子供はどこから来た。この山に子供がいるとしたら工房の関係者か。でも商談中にそんな子供は見なかった。いやそもそも今それより先に考えることが——)
清和は崖の下を、もう一度見た。
酒井は動いていない。
(……確認しなきゃいけない)
足場を確かめながら、清和はゆっくりと斜面を下りた。土が湿っていて、何度か滑りそうになる。膝をつきながらなんとか近づき、酒井の首筋に手を当てた。
冷たかった。
脈は、なかった。
「……」
清和は斜面に座り込んだ。
頭の中が、真っ白だった。さっきの警報音も、心臓の音も、何もかもが遠のいていく。代わりに耳の奥で、静寂だけがじわりと広がっていった。さっきと同じ静寂のはずなのに、今度は違う種類の重さを持っていた。
「お兄ちゃん」
顔を上げると、子供が崖の縁から顔を覗かせていた。
いつの間にそこに来たのか。さっきまで木の根元にいたはずなのに、足音一つしなかった。
「どうする?」
「……どうするって」
「かくす? かくさない?」
清和は目を細めた。
「……君、何者?」
子供はにっこり笑った。
「ひみつ」
「いや、ひみつじゃなくて」
「かくすなら、てつだってあげる」
清和は固まった。
「……は?」
「てつだってあげるよ。おれ、できるよ」
「できるって……何が」
「このおじさんが『かくれたら』、お兄さんは悪者じゃないよね」
清和は子供を見た。子供は清和を見た。
夜の山の中で、二人はしばらく見つめ合った。
どう考えても普通の子供ではない。真夜中の山に一人でいること、一部始終を見ていたこと、「かくす」などという物騒な発言。そして何より——
(この子、足音がしなかった)
崖を下りてきた気配も、木の根元から近づいてきた気配も、何もなかった。音のない存在。それが今、崖の縁から清和をのぞき込んでいる。
「……代わりに何が欲しいの」
清和は努めて冷静に聞いた。我ながら交渉に応じている場合ではないと思ったが、他に選択肢も浮かばなかった。
「察しがいいね!」
子供はぱっと表情を明るくした。
「いっしょにすんで」
「……は?」
「お兄さんのうちに、いっしょにすませて。ずっとひとりだったから、つまんなくて」
清和はもう一度、崖の下の酒井を見た。
それから子供を見た。
それから夜空を見た。
電波なし、逃げ道なし、死体あり、謎の子供あり。
「……君、名前は?」
「なまえ?……わすれちゃった」
「は? 自分の名前だろ?」
「……好きじゃなかったから、わすれた」
子供はあっけらかんと言った。その軽さが、逆に清和の胸に小さな引っかかりを残した。好きじゃなかった、と言える名前があったということは、かつてはあったのだ。どこかに、誰かがつけてくれた名前が。
「好きじゃ——」
「忘れた」
「……じゃあ」
清和は少し考えてから、言った。
「なんかふわっとしてるから、『フワ』で」
一瞬の間があった。
「……フワ」
子供はその名前を、口の中で転がすように繰り返した。
「僕の名前、フワ?」
「あ、ああ……嫌なら別に……」
「あは、あはははは!」
突然、子供が笑い出した。山の静寂を、その笑い声だけが突き破る。あたりに響いて、木々の奥へと消えていく。笑い声は、おかしいくらいにこの山の暗さに馴染まなかった。こんな夜に、こんな場所に、そんな声があっていいはずがないのに。
「僕が『フワ』! あはは! 最っ高だね!」
「……」
「ふふ、ああ、お兄さんの名前は?」
「巫部 清和……」
「そう、いい名前だね」
「……うん」
清和はため息をついた。長い、長いため息だった。山の静けさの中に、その音だけが白く溶けていった。
「……わかった。話を聞かせてくれ、フワ」
フワはまた、にこにこ笑った。
「話を聞かせてって言っても、そのまんまだよ? 俺が『隠して』、お兄さんが僕と『棲む』。そういう『約束』をするの。」
フワは崖の縁に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら言った。高さを全く気にしていない。というより、気にする必要がないのかもしれなかった。
「まず、隠すってなんだよ。埋めるのか?」
清和が斜面から戻りながら聞くと、フワは「もう」という顔をした。
「それじゃあ、おじさんがいない事がばれちゃうでしょ? ちゃんと話きいて」
「え、ごめん?」
「全く! いい?」
フワは小さな指を一本立てた。子供が授業を始める時のような、妙に板についた仕草だった。
「このおじさんを知ってる人はいーぱいいるよね。おじさんがいなくなったら探そう! ってなるでしょ? そしたらおじさんが『こうなった』のがわかっちゃう」
「俺がそうならないようにするの」
「だから、どう、やって」
清和が言い終わる前に、フワが立ち上がった。
「みててね?」
静かな声だった。さっきまでの子供らしい口調と、少しだけ違う。声のトーンが落ちた、というより——声の奥から、何か別のものが滲み出てきたような感じだった。
フワは崖の縁から一歩踏み出し——そのまま、空中に立った。足場など何もないのに。
清和は息を飲んだ。
フワは小さな指で、崖の下の酒井をゆっくりと囲むような軌跡を描いた。指先が空を切るたびに、その軌道に沿って夜の空気が微かに歪んで見えた。気のせいかもしれない。気のせいであってほしかった。
『かくれ、かくれ、陰に飲まれたまえ、見るものの目をくらませ、知るものの声を曇らせよ』
声は低く、静かで、さっきとは別人のようだった。その言葉の一つ一つが音というより、夜の山の空気に溶け込むようだった。呪文の言が紡がれるたび山がそれに答え飲み込んでいく気がした。
「はぁ?!」
酒井は地面に沈んだ、とは表現が正しくない。
酒井の周りに、ゆっくりと『影』が出来上がっていった。月明かりも懐中電灯の光も届かない、本物の黒だった。足元の土からじわりと染み出すように、あるいは夜の空気そのものが凝り固まるように、影は無音で酒井を取り囲んでいく。
これほどの異変が目の前で起きているのに、何も聞こえない。風が鳴るわけでも、地面が割れるわけでも、酒井が声を上げるわけでもない。ただ静かに、静かに、影が膨らみ、人の輪郭をゆっくりと包み込んでいく。
酒井を『飲み込んだ』
そして——消えた。
ぽっかりと、何もなかったように。崖の下の斜面には、酒井の姿が一切なかった。靴の跡も、倒れていた形跡さえも、湿った土だけを残してきれいに消え去っていた。
「はい!」
「……」
声にならない。
フワはいつの間にか地面に降り立っていた。足音はやはりしなかった。
「俺は『約束』を成したよ、次はお兄さんの番」
「な、あ」
どこから言葉を絞り出せばいいのか分からなかった。
フワは清和の右手をためらいなく掴み、自分の小指を清和の小指に絡めた。
「……よし」
フワは何かを確かめるように、繋がれた指を、それから清和の手全体をじっと見る。
その瞬間、清和の小指から腕の内側を抜けて、胸の奥まで——ちり、と微かな何かが走った気がした。痛みではない。熱でも冷たさでもない。強いて言えば、何かが決まった、という感触だった。
「これからよろしくね、清和」
お兄さん、ではなかった。
清和、だった。
名前を呼ばれた瞬間、清和はなぜか返す言葉を持てなかった。夜の山の静けさの中で、フワの声だけがやけにはっきりと、耳の奥に残った。




