壱話
巫部清和はデスクに座り、今日取引先に持っていく資料の確認をしていた。
オフィスの朝は騒がしい。電話の呼び出し音、コピー機が紙を吐き出す規則正しい音、誰かが笑い、誰かが怒鳴る。その音の洪水の中で、清和だけが小さく縮こまるようにして画面を見つめていた。
今日の取引先は老舗家具メーカーの久田工房。大手で、社長も同席することになっている。いつも以上に失敗できない。しかし、いつも以上に集中力がもたない。
『転職』——昨日スマホの記事を見て以降、この二文字が脳裏をチラつく。
(ここをやめて別の所に行こうにもすぐに仕事が決まるかどうか……)
「巫部! なにしてる!」
少し意識を仕事から逸らしていると、耳にタコができるほど聞いた怒鳴り声が飛んでくる。
社長・酒井孝雄様のお出ましだ。寝癖のついた髪を後ろに撫でつけ、スーツのボタンは弾け飛びそうだ。出社するたびにこの人の声量が上がっている気がする、と清和は思う。もしくは自分の耐性が下がっているだけか。
「酒井社長、おはようございます。ただいま本日訪問する、久田工房様への報告資料を確認しておりました。」
「言い訳するな! 怠けもの、そんなの資料を作っている最中に覚えろ、そのために一から作らせたんだ」
「すみません」
心の中で「無理だわ」と悪態をつきながら受け流すと、面倒なことを思い出した。
「俺の席にコーヒーがないが?」
(やっぱりこれだ)
毎朝の日課だったが、今日は社長の出社が遅かったせいですっかり抜けていた。清和は慌てて引き出しから缶コーヒーを取り出し、差し出す。
「ブラックでございます」
「お前は本当に気が利かねえな、ぬるいじゃねえか!」
缶が机に叩きつけられる音が、オフィス中に響いた。
金属と木の、短くて硬い音だった。周囲の同僚が一瞬だけ顔を上げ、また各自の画面に視線を戻す。誰も何も言わない。この音には皆、慣れすぎていた。
缶コーヒーくらい自分で買ってもらいたいものだ、と清和は思ったが、当然口には出さない。
机に戻ると、大量の見積書が山積みになっていた。自分の担当ではない部署の分まで押し付けられている。隣の席の先輩は、すでに帰り支度をはじめていた。
「悪いな巫部、頼んだぞ。俺、嫁がうるさくてさ」
「……はい」
時計はすでに17時を回っていた。取引先の希望で19時からの商談だ。これから社長を乗せて片道一時間近く車を運転すると考えると、気が重い。
「……なんで、俺ばっかり」
呟きは、オフィスの喧騒に飲み込まれて消えた。
〜〜〜〜
社用車の白の軽自動車は、夜の国道をとろとろと走っていた。
エンジンの単調な振動と、アスファルトを踏むタイヤの音。それ以外は静かなはずの車内に、助手席からいつもの声が流れ込む。
こういう時は決まって、酒井の愚痴か武勇伝が始まる。今日はどうやら"愚痴の日"らしい。
「まったく……最近の若い奴は根性がない。昨日だってだな、部下が"残業が多すぎる"とか抜かしやがってよ。俺の若い頃なんか、終電逃すのが当たり前だったんだぞ?」
「……はあ」
「聞いてんのか? 巫部」
「はい」
「お前だってそうだ。上に立つってのはな、責任を背負って当然なんだよ。俺なんか寝る間も惜しんで働いたから、今こうして社長になれたんだ」
(また始まった……あんたは前社長の息子だっただけだろ。)
清和は相槌を打ちながら、心の奥で小さくため息をついた。会社を辞めたい、という思いが頭の隅でじりじりと熱を帯びる。だが、言葉にはできない。
ハンドルを切りながら、清和は視界に広がる黒々とした山影を見上げた。言いようのない息苦しさを覚える。
これから向かう久田工房は、そこそこ名の知れた老舗の工房だ。本社は山奥にあり、道がややこしいことで有名だった。しかも先方から「麓の駐車場に車を止めてきてほしい」と注文がついている。本社の駐車場は社員の車で埋まっているのだという。
(山道……。引き続き社長の横で愚痴を聞きながら歩くのか……)
麓に車を停め、工房に続く山道を歩く。
看板には『延縁山』と書かれている。
夜の山の中は、思ったより音が多かった。虫の声、葉の擦れる音、足元の湿った土を踏むたびに靴がわずかに沈み込む音。転けないよう注意しながら歩く。
『久田工房はこの先』と看板が建てられていたので、なんとか迷わず、十五分後にたどり着いた。
工房は山の斜面を切り拓いた敷地に建っていた。二階建ての木造建築のウッドハウスで、夜でも温かみを感じさせる佇まいだった。正面には木の看板に「久田工房」と力強い筆跡で刻まれている。
玄関をくぐると、ひんやりとした木の香りが鼻をくすぐった。山の中にあるせいか、外の音がきれいに遮断されている。奥から、規則正しい足音が近づいてきた。
現れたのは作務衣姿の男だった。五十代半ば、小柄ながら背筋が真っ直ぐで、握られた手には節くれだった厚い指が見える。
「わざわざ山奥までお越しいただいて、ありがとうございます。久田友康と申します。」
声は低く、柔らかかった。酒井の怒鳴り声とはまるで違う、落ち着いた声だ。表情も人懐こい笑みを浮かべていた。
応接間に通され、久田と清和、酒井が向かい合ってソファに座る。清和はいそいそとカバンからファイルを取り出した。
「本日、久田工房様と取引させていただきたいのは、こちらの商品です」
清和はファイルを開き、カタログを久田の前に並べた。
「こちらが新商品のオフィスチェアとデスクのシリーズになります。耐久性に優れ、価格帯も——」
「ちょっと待て」
酒井が横から割り込んできた。
「久田さん、この商品はですね、うちの自信作でして。他社より三割は安く提供できます。品質も申し分ない」
久田は穏やかな表情のまま、カタログに目を落とした。指先でページをゆっくりとめくりながら、何かを確認している。
「なるほど……デザインはシンプルで良いですね」
「でしょう! やっぱり久田さんは目が高い」
酒井が満面の笑みで身を乗り出す。清和は横目でそれを見ながら、資料の次のページを開こうとした——その時だった。
「あの……これ、素材の記載が違いませんか?」
久田の声に、清和の手が止まった。
「え?」
「カタログには『天然木使用』とありますが、こちらの仕様書を見ると『合板』になっていますね」
久田が指差したのは、清和が今朝確認したはずの資料だった。
血の気が引いた。
「あ……」
見比べると、確かに食い違っている。カタログと仕様書で、素材の表記が異なっていた。
「どういうことだ、巫部!」
酒井の声が裏返った。静かな応接間に、その怒声だけが余計に大きく響いた。
「す、すみません……こちら、印刷ミスかと……」
「印刷ミス? 馬鹿野郎、お前が最終チェックしたんだろうが!」
酒井の顔が真っ赤に染まる。清和は頭を下げた。
「申し訳ございません」
久田は困ったように笑った。
「いえ、ミスは誰にでもあります。ただ、正確な情報をいただかないと、こちらとしても判断できませんので……」
「も、もちろんです! すぐに正しい資料をお送りします! な、巫部!」
「はい……」
その後、商談はなんとか形だけは続いたが、久田の表情には明らかに不信感が浮かんでいた。会話のたびに一拍の間が入るようになった。その沈黙が、清和には針のように刺さった。
工房を出たのは、予定より三十分も早かった。
「最悪だ……最悪だ……!」
酒井は足早に山道を下りながら、ぶつぶつと呟き続けた。足元の枯れ葉を踏みつける音が、怒りに任せてやたらと大きく響く。
「お前のせいで、俺の顔に泥を塗りやがって! 久田工房は大口の取引先になる予定だったんだぞ!」
「申し訳ございません……」
「謝って済むなら警察はいらねえんだよ!」
清和は黙って後ろを歩いた。足元の土が湿っていて、一歩ごとに靴が沈む。暗い山道に、酒井の声だけがやたらと響いた。
麓の駐車場に戻り、軽自動車に乗り込む。エンジンをかけると、車内に低い振動音が戻ってきた。酒井は助手席でため息をついた。
「……お前、本当に使えねえな」
「……」
「俺が若い頃はな、こんなミスなんかしなかったぞ。気合が足りないんだよ、気合が」
清和はハンドルを握ったまま、何も言わなかった。
車は山道をゆっくりと下り始めた。ヘッドライトが照らす先は、暗い木々と曲がりくねった細い道だけだ。
「……あれ?」
十分ほど走ったところで、清和は違和感を覚えた。
来た道と、景色が違う。
「……どうした」
「いえ……なんでもないです」
そう言いながらも、清和の胸には嫌な予感が広がっていた。
さらに五分。
道は一向に国道に出ない。それどころか、どんどん細く、険しくなっていく。木々が道の両脇から迫り、タイヤがごつごつした地面を踏む音が変わってきた。
「おい……巫部」
「……はい」
「もしかして……道、間違えたのか?」
清和は言葉に詰まった。
「……すみません」
「は?」
「多分……来た道と違う方に……」
「お前……!!」
酒井が叫んだ。
閉め切った車内で、その声が反響する。
「なんで気づかなかったんだよ! お前、運転しながら何考えてたんだ!」
「すみません……」
「すみませんじゃねえ! 今何時だと思ってんだ! こんな山奥で迷ってどうすんだよ!」
清和は車を停めた。路肩に寄せ、ハザードを点ける。オレンジ色の点滅音が、静かな山の中でやけに間の抜けた音を立てた。
「今、スマホで確認します……」
スマホを取り出すが、圏外だった。
「……ダメです、電波が……」
「最悪だ……最悪だ……!」
酒井は頭を抱えた。
「お前のせいだからな! お前が全部悪いんだからな!」
清和は何も言えなかった。胸の奥で、何かがぎゅうと締め付けられるような感覚があった。
(……俺のせい、だ)
(全部、俺が悪い)
車を降り、二人は来た道を徒歩で引き返すことにした。
暗い山道を、懐中電灯の明かりだけを頼りに歩く。足元の土が湿っていて、靴が沈むたびに湿った音がした。さっきまであれほど賑やかだった虫の声が、今は妙に遠く聞こえる気がした。
酒井の愚痴は止まらなかった。
「お前みたいな奴を雇ったのが間違いだった」
「本当に使えない」
ギシッ。
胸の奥で、何かが音を立てた。
「こんな奴に給料払ってると思うと腹が立つ」
清和はただ黙って歩いた。足元の土が湿っている。時折、小石が転がる音がする。
(……もう、嫌だ)
キーン、キーン、キーン。
頭の中で警報音がする。
(もう……限界だ)
「なあ、巫部」
不意に、酒井が立ち止まった。
「お前さ……本当に使えねえよな」
「……」
キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン。
うるさい。
キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン、キーン。
うるさい、うるさい。
「俺がいなかったら、お前なんか何もできないだろ?」
うるさい!!
清和は、ゆっくりと顔を上げた。
暗闇の中、懐中電灯の光の縁で、酒井の顔がぼんやりと浮かんでいる。脂ぎった額に汗が光っていた。
「……社長」
「あ?」
「俺……辞めます」
警報が止む。
頭の中が、静かになった。
酒井が目を見開いた。
「……は?」
「もう……無理です。辞めさせてください」
「お前……今、なんて言った?」
酒井の声が低くなった。
「辞める? お前が?」
「……はい」
「ふざけんな!」
酒井が怒鳴った。静かになったばかりの頭の中に、その声が波紋のように広がった。
「お前みたいな無能、他で雇ってくれるとこなんかねえぞ! 俺が育ててやったから今があるんだろうが!」
「……それでも、辞めます」
「お前……!」
酒井が一歩、清和に詰め寄った。
清和は後ずさった。
酒井の足元の土が崩れた。
「——あっ」
酒井の体が、バランスを失った。
清和は反射的に手を伸ばした——が、届かなかった。
指先が、空を切った。
酒井の体が、崖の斜面を転がり落ちていく。
ゴツン。
ゴツン。
鈍い音が、二度、三度、夜の山に吸い込まれていった。
そして——静寂。
さっきまでの虫の声も、風の音も、何もかもが消えてしまったようだった。
「……社長?」
清和の声が震えた。
「社長……?」
返事はなかった。
清和は恐る恐る、崖の縁に近づいた。懐中電灯を向けると——
数メートル下の斜面に、酒井が倒れていた。
動かない。
「……嘘、だろ……」
清和の手から、懐中電灯が滑り落ちた。




