4話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十二章 師走
第四話 吉良、後ろ盾完全消滅、上杉家お預け
一、上杉家お預け、正式決定
柳沢の失脚から間もなく、吉良の処遇についても沙汰が下った。高家筆頭としての務め、もはや叶わず。実子・上杉綱憲の元へ、お預けとする——表向きは穏やかな言葉であったが、それは事実上の引退、そして隠居を意味していた。
「殿、ご決定にございます」
一学がその旨を伝えても、吉良は曖昧に頷くだけであった。
二、邸、最後の整理
本所松坂町の邸では、これまでの暮らしの品々が、静かに整理されていく。財宝の逆流構造で膨れ上がっていた蔵も、もはやその意味を持たなかった。小県小人の佑は、最後まで合わなかった帳簿を前に、ただ黙って算盤を片付けた。
「小人、小人……これでよかったのでしょうか」
誰に問うでもない呟きであった。
三、一学、最後の言葉のつもりが
出立の前夜、一学は吉良の装束を整えながら、いつものように声をかけた。
「殿、明日はいよいよ、上杉様の元へ」
「うむ……」
「長らく、お側に仕えさせていただきました」
万感の思いを込めたつもりであった。これまでの日々——深夜の届け物に怯え、すりこぎに頭を打たれ、それでも共に邸を守ってきた、その全てを込めたつもりであった。
四、お主はだれだったかのう
吉良は、しばらく一学の顔をじっと見つめていた。やがて、静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「お主は……だれだったかのう」
何の悪意もない、ただの問いであった。それだけに、なおのこと重かった。
五、一学、膝をつく
一学の体から、すっと力が抜けた。膝が崩れ、その場に座り込む。涙も、声も、すぐには出てこなかった。ただ、長年仕えてきた主の、何の曇りもない問いかけだけが、頭の中で繰り返された。
「儂は……一学にございます……」
声を絞り出しても、もはやそれが届いているのかどうか、わからなかった。
六、吉良、何も知らぬまま
「ああ、一学か。すまぬな、近頃は色々と忘れっぽくて」
吉良は、何事もなかったかのように、いつもの調子で笑った。「なはは」という、力のない笑い声であった。彼自身は、たった今起きたことの重さを、もう覚えていないようであった。
その夜、一学は誰もいない廊下で、長いこと一人で座り込んでいた。
七、出立の朝
師走の朝、吉良を乗せた駕籠が、静かに本所の邸を後にした。見送るのは、一学と小県小人の佑、ほんの数名だけであった。盲之助は、まだ脱力から立ち直りきれぬ様子で、遠くからただ頭を下げていた。
懐の塩細工——偽物のそれを、吉良は最後まで大事そうに抱えていた。
八、上杉への道
道中、吉良はほとんど言葉を発しなかった。窓の外を眺め、時折「なはは」と小さく笑う。何を見て、何を思っているのか、もはや誰にもわからなかった。
九、綱憲、出迎える
上杉の屋敷に着くと、当主・上杉綱憲が、自ら門前で出迎えていた。その傍らには、色部又四郎の姿もあった。
「父上、よくぞお越しくださいました」
綱憲の声は、静かで、優しかった。
十、父と子
「お主は……」
吉良が、また同じ問いを発しかけた。だが綱憲は、それを遮るように、そっと父の手を取った。
「綱憲にございます。父上の息子の」
「ああ……そうか。そうであったな」
確かな記憶ではなかったかもしれない。それでも、その手の温もりだけは、吉良の中に、何かを残したようであった。
色部は、その光景を少し離れた場所から、黙って見守っていた。
十一、結び
師走の風が、上杉の庭を静かに吹き抜けていく。本所の邸には、もう誰も住んでいない。一学は、空になった邸の縁側に一人座り、塩細工の本物が、いつかこの地に戻ってくる日を、ただ静かに待っていた。
今宵の一句
名を問はれ 答へぬままに 冬深し
あっちゅ寝太郎エッセイ
(今回は、正直、書いていて何度か手が止まった。「お主はだれだったかのう」、悪意がないからこそ、一番痛い言葉だったと思う。一学くんが膝から崩れる場面、大げさにしたくなかったけど、それで合ってたかな。綱憲様が静かに手を取る場面で、少しだけ救われた気がした。十二章、いよいよ最後の一話。大団円、どんな形で締めくくろうか。)
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




