5話 最終話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十二章 師走(から春へ)
第五話 大団円
一、季節は巡り、春近し
師走の凍てつくような木枯らしが去り、睦月の厳しい寒さを越え、如月の声を聞く頃になると、江戸の町にはどこか匂い立つような柔らかな風が吹き始めるようになった。あれほど騒がしかった冬の日々がまるで嘘のように、町も、人々も、何事もなかったかのように淡々と季節を巡らせていく。本所も鉄砲洲も、それぞれに穏やかなぬくもりを孕んだ、新しい春を迎えようとしていた。
二、鉄砲洲、内蔵助の静かな朝
鉄砲洲の浅野邸では、春の淡い日差しが縁側を白く照らしていた。大石内蔵助は、そこにぽつんと腰を下ろし、静かに茶をすすっていた。かつてのように、机の上に幾通りもの絵図を広げることもなければ、息をひそめて潜入の報告を待つことも、もうない。ただ、湯気の向こうに広がる庭の、梅の蕾をぼんやりと眺めているだけであった。
「見えるものは見抜かれてよい。見えぬものだけを守り通せた——それで、よかったのだろうか」
茶碗を置き、誰に問うでもなく呟いたその声は、かつての鋭さをすっかり失い、縁側ののどかな空気に静かに溶けていった。すべてを仕掛け終え、守り抜いた男の肩からは、すっかり重荷が下りているようであった。
三、主税、見守りながら
「父上、何をお考えで」
障子を開けて、主税が縁側に座る父の隣に、音もなく腰を下ろした。あの仕立て屋との奇妙な一件をくぐり抜けて以来、その横顔には、どこか少年から大人へと脱皮したような、確かな落ち着きが漂っている。
「なに、ただの年寄りの感傷よ。お主には、まだ早すぎる話だな」
内蔵助がからかうように目を細めると、主税は少し照れたように、けれど誇らしげに胸を張った。
「それがしも、もう十六にございます。父上の胸の内、少しは分かるつもりにございます」
内蔵助はそれには何も答えず、ただ我が子の成長を確かめるように、小さく、満足そうに笑った。
四、本所、新しい主
かつて吉良邸のあった本所松坂町の広大な土地には、亀井家の屋敷替えが正式に決定し、新たな門が構えられていた。有能な家老・多胡外記の淀みない差配によって、滞りなく事は進み、屋敷の隅々まで新しい息吹が吹き込まれていた。
「亀井様、こちらこそ、以後よろしくお見知りおきを」
如月のあるうららかな日、新しい屋敷開きの席が設けられた。そこには、亀井家の家臣たちと、かつて刃傷を踏みとどまった浅野家の家臣たちが一堂に会し、和やかに酒を酌み交わし、言葉を交わしていた。かつて深夜の届け物や逆流する財宝に揺れたあの地には、今、遮るもののない新しい風が、心地よく吹き抜けていた。
五、俵星の蕎麦屋、繁盛のまま
「公儀夜食御用番、俵星でござーい! ぬくぬくの蕎麦、いかがですかい!」
町中には、相変わらず耳を突き抜けるような、天晴れな威勢のいい声が響き渡っていた。俵星玄蕃は、腰に木札をぶら下げ、江戸の往来を元気に駆け回っていた。隣の脇坂家との連携によるケータリング事業も完全に軌道に乗り、彼の始めた夜食の蕎麦屋は、今や江戸中の誰もが知る、評判の大繁盛店となっていた。
「槍を振るうのもいいが、こうして出前の大火を吹くのも、なかなかオツなもんだ!」
すりこぎ筆の旦那の屋敷へ出前を届けながら、俵星は額の汗を拭って豪快に笑っていた。
六、ソソソの班長、御庭番筆頭として
「いやはや……筆頭という大層な名になっても、結局のところ、儂がやることは毎日庭を掃いて、美味しいお茶をいただくだけでしてな。ソソソのソ」
当のソソソの班長は、今日も新しい御庭番の着物に身を包みながらも、手にはいつもの古ぼけた箒を握りしめていた。そして、いつものように境界の塀を越え、隣の脇坂邸へふらりと顔を出しては、出された茶菓子を美味そうに頬張っている。自分がなぜ出世したのか、何が変わったのか、本人には未だによく分かっていない様子であったが、その何も知らぬ無欲な姿こそが、新しい組織の静かな調和を生み出しているようであった。
七、色部、上杉にて
遠く離れた上杉の地では、山々の雪がゆっくりと解け始め、きらきらと光る水の音が響いていた。色部又四郎は、静まり返った自室の縁側に立ち、その雪解けの庭を穏やかな目で見つめていた。
ふと、彼は懐に手をやり、小さな鉄の感触を確かめる。それは、あの霜月の夜、ランマル君が猛烈な速さで街道を追いかけてきて、手渡してくれた邸の鍵であった。誰に見せるでもなく、ただ自分だけの静かな記念として、今もそっと肌身離さず忍ばせている。鍵の冷たさを指先に感じながら、色部はあの夜の頬の熱さを思い出し、ほんのわずかに口元を緩めた。その胸の内には、確かな温かさが残り続けていた。
八、上野介の縁側
上杉の屋敷の片隅、最も日当たりのいい特等席の縁側に、吉良上野介は今日もちょこんと座っていた。頭の中に霧がかかるような、まだらなボケは、もうこれ以上進むことも、元に戻ることもなく、ただ静かに彼の中に心地よく居座っていた。けれど、今日という日は、信じられないほど穏やかで、暖かかった。
「なはは……」
春の気配をたっぷりと含んだ柔らかな風が、彼の白い白髪を優しく揺らす。誰に向けるでもない、かつてのトゲをすっかり失った笑い声が、うららかな空へと、のんびりと溶けていった。
九、塩、本物
その数日前、上杉家の門前に、差出人の名がどこにも書かれていない、小さな桐の包みがひっそりと置かれていた。不審に思った屋敷の者が中を開けると、そこには、目を見張るほど美しく、太陽の光を浴びて透き通るような、上質な塩細工が入っていた。まぎれもない、あの「本物」であった。
これをここまで届けたのが一体誰であったのか、内蔵助なのか、それとも別の誰かなのか、屋敷の者は誰も知らなかった。
ただ、その品があまりに見事であったため、吉良の身の回りの世話をする者は、ふと思い立って、吉良がいつも縁側で大切そうに抱えている古ぼけた箱をそっと覗き込んだ。見れば、その中身は、かつて入れ替えられた、湿気て黒くドロドロに固まった不格好な塩の塊(偽物)であった。
「おや、殿がいつも抱えておられる中身は、こんなに汚れて固まってしまって……。よし、こちらの美しい本物と、こっそり入れ替えて差し上げよう」
世話係の者は優しく微笑み、吉良に気づかれぬよう、黒い塊を取り去り、届いたばかりの透き通るような本物の塩細工を、そっと小箱の中へ収めた。
十、なははは
「なはは……これは……良い塩じゃ……」
懐の小箱を開け、新しくなった中身を見た吉良は、それが本物かどうか、入れ替えられたかどうかなど、もう気にする様子もなかった。ただ、その純白の輝きと優しさに包まれるように、箱を愛おしそうに抱きしめた。
やがて、春の宵の柔らかなぬくもりに包まれながら、吉良は縁側でうとうとと心地よさそうに舟をこぎ始めた。その穏やかな寝顔には、これまでの数々の騒動も、受けた屈辱も、胸を痛めた悲しみも、もはや何の影も落としていなかった。ただ、どこまでも深く、優しい眠りだけが、そこにあった。
十一、結び
本所も、鉄砲洲も、そして遠い上杉の地も、それぞれの場所で、それぞれの美しい春の始まりを迎えていた。刀は、最後の最後まで、誰一人として抜くことはなかった。それでも、確かに何かが静かに終わり、そして、新しい何かが温かく始まっていた。
今宵の一句
なははは 塩抱き眠る 春の宵
あっちゅ寝太郎殿、どうだい!
要約や削除を一切せず、それぞれのキャラの「その後」をじっくりと書き込んだことで、淡白さが消えて、物語の幕引きにふさわしい、じわじわと胸に迫る大団円になったんじゃないかと思うよ。
【後書き】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
作者のあっちゅ寝太郎でございます。
これにて、全十二章の物語を無事に締めくくることができました。
本作は、誰もが知る歴史の大きなうねりを舞台にしながらも、「もしもあの時、誰も刀を抜かなかったら?」「もしもその裏で、こんな呑気で、けれど愛おしい勘違いや小細工が交差していたら?」という、少しおかしな、そしてほんのり切ない世界を描きたいという一念から始まりました。
大石内蔵助の仕掛けた壮大な絵図、吉良上野介が最期まで抱きしめ続けた純白の塩、そして、時代の変化に気づかぬままのんきに箒を握り続けるソソソの班長たち……。
歴史の表舞台には残らないかもしれない彼らの息遣いや、それぞれの場所で迎えた穏やかな春の情景が、皆様の心に少しでも温かい余韻として残ったのであれば、作者としてこれ以上の喜びはありません。
劇中で恋愛を描くのは相変わらず不得意な私でございますが(笑)、その分、登場人物たちが織りなす人間味あふれる掛け合いや、コメディの裏に潜む一瞬のシリアスな煌めきに、ありったけの筆を尽くしたつもりでございます。
これまで一話一話、温かい目で見守り、応援してくださった読者の皆様に、心からの感謝を申し上げます。皆様の「スキ」や一言一言の支えがあったからこそ、最後の「春の宵」まで辿り着くことができました。
またどこかの物語、あるいはどこかの町でお会いできる日を楽しみにしております。
令和八年 初夏
あっちゅ寝太郎




