6話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十一章 霜月
第六話 色部又四郎、静かに上杉へ帰還
一、色部、荷をまとめ終える
旅支度は、思いのほか早く整った。元より、多くを持たぬ性分であった。色部又四郎は、文机の上を整理しながら、これまでこの邸で見てきたものを、一つ一つ思い返していた。
財宝の不可解な逆流、深夜の届け物、すりこぎの落下、廊下での失態——どれも、自分一人ではどうにもならぬことばかりであった。
「結局、儂に何ができたというのか」
誰に問うでもない、独り言であった。答えは、もとより出ぬとわかっていた。
二、別れの挨拶、邸内にて
「上杉へ、お戻りになられるか」
一学が、廊下でその姿を見止めて足を止めた。
「うむ。役目柄、潮時というものがある」
「左様か……長らく世話になり申した」
「世話になったのは、こちらの方よ。お主がおらねば、邸内の備え、もっと早くに崩れておったやもしれぬ」
一学は、その言葉に少し驚いた様子であった。普段、互いを労うような言葉を交わす間柄ではなかった。
「色部殿、上杉でも息災にな」
「お主もな。あまり、白目を剥きすぎぬよう」
「それは、約束しかねますな」
二人の間に、珍しく笑いが起きた。
三、ランマル君との最後の言葉
中庭で、ランマル君が一人、見送りに立っていた。
「ニン」
「うむ、達者でな」
「ニン、ニン」
「……何だ、言いたいことがあるなら申せ」
ランマル君は、しばし黙り込んだ後、小さく首を振った。
「ニン」
それだけの言葉であった。多くを語らずとも、互いの選んだ道は、もうはっきりしていた。色部は何も問わず、ただ小さく頷いて、その場を後にした。
四、色部、邸を発つ
門を出る色部の背中を、一学とランマル君が並んで見送った。誰も呼び止めることはしなかった。これもまた、一つの潮目であった。
「色部殿のような御方が去られるとは……邸も、いよいよ変わり目か」
一学の呟きに、答える者はいなかった。
五、上杉への道
街道を行く色部の足取りは、軽くもなく、重くもなかった。来た道を、ただ淡々と戻っていくだけのことであった。振り返ることはしなかった。振り返ったところで、何かが変わるわけでもない。
「あとは、なるようになろう」
それが、彼に残された、唯一の感想——のはずであった。
六、忘れ物、追いついてくる足音
街道を半ばまで進んだ頃、背後から猛烈な速さで何かが迫ってくる気配がした。振り向く間もなく、すぐ隣に並んでいたのは、ランマル君であった。
「色部殿、これを」
差し出されたのは、邸の自室に置きっぱなしであった鍵であった。几帳面で鳴らした色部が、よりにもよって最後の最後で、こんな忘れ物をしていたとは。
「な……これは、その、忝い」
受け取る手が、わずかに震えた。頬には、見たこともないほどの朱が差していた。
「ニン」
ランマル君は短くそれだけ言うと、もう踵を返していた。色部は、しばしその場に立ち尽くしたまま、自分の頬の熱さを持て余していた。
七、ランマル君、邸へ戻る
邸に戻ったランマル君が、その一部始終を一学に話すと、一学はしばし、信じられぬという顔をした。
「あの色部殿が、顔を赤らめた、と申すか」
「ニン」
「あのおっさん……大丈夫か?」
一学の素朴な問いに、ランマル君もまた、首をかしげるばかりであった。
八、柳沢邸、また書状の山
その頃、柳沢吉保の屋敷では、文机の書状がさらに積み上がっていた。上様の御容体に関する報せ、各方面からの伺い、対応に追われる日々——かつての権勢ある差配ぶりは、もはや見る影もなかった。
「これも、あれも、後でよい……いや、それも後で」
判断を先延ばしにする言葉ばかりが、口をついて出るようになっていた。
九、評定にて、柳沢の影薄く
月末の評定でも、その変化は明らかであった。これまでなら真っ先に発言していた柳沢が、今はただ末席で押し黙ったまま、他の役人たちの話を聞いているだけのことが増えていた。
「柳沢様、近頃お加減でも優れぬのか」
金目鯛が、丸い目でそっと様子をうかがう。柳沢は、力なく首を振るだけであった。
十、結び
霜月も終わりに近づき、本所も鉄砲洲も、上杉への道のりも、同じ冷たい風に包まれていた。色部のいなくなった吉良邸では、何か大きな支えが一つ、静かに抜け落ちたような気配だけが残っていた。それでも、鍵を握りしめたまま頬を赤らめた一瞬だけは、不思議と温かい余韻として残っていた。
今宵の一句
去る者の 頬にも残る 冬ぬくし
あっちゅ寝太郎エッセイ
(色部さん、最後まで多くを語らずに去っていったと思いきや、まさかの忘れ物オチがついたね。鍵を渡されて頬を赤らめるとか、これまでの「冷静な実力者」像が一気に崩れて、なんだか可愛げが出てきた。一学くんの「あのおっさん大丈夫か」は完全に素の反応で好き。柳沢様の方は相変わらず沈んでいく一方だし、十一章、いよいよ最後の一話に向かっていくなぁ。)
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




