4話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十一章 霜月
第四話 柳沢への懇願、完全空振り
一、本所より、柳沢邸へ
儀式の不始末から数日、吉良はついに意を決し、柳沢吉保の屋敷を訪れることにした。これまでなら、こうまで弱気になることはなかった。だが、あの廊下での出来事以来、何かが少しずつ、自分の中で擦り減っていくのを感じていた。
「柳沢様におかれましては、なにとぞお力添えを」
供を一人だけ連れ、吉良は珍しく、ひどく控えめな足取りで門をくぐった。いつもの高家筆頭としての威風はどこへやら、霜月の冷たい風に背中を丸めるようにして、重い足取りで広大な柳沢邸の敷地を進んでいった。
二、柳沢、いつもと違う様子
通された座敷で待つこと、しばし。いつもならすぐに現れ、鷹揚に微笑むはずの柳沢吉保は、今日に限ってはなかなか姿を現さなかった。
ようやく現れたその様子は、いつもの落ち着き払った端正な姿とはどこか決定的に違っていた。目の下にはどんよりと濃い隈が浮かび、その手にある文机の上には、開きかけの書状や御用向きの紙束が、整理されることもなく幾通りも乱雑に散らばっている。部屋には、主の焦燥を映したような重苦しい沈黙が満ちていた。
「ああ、吉良殿か。すまぬ、近頃は何かと忙しゅうてな」
「上様の御容体に、何か」
吉良がそっと問うと、柳沢は一瞬だけ、その鋭い視線を泳がせてと言葉を濁した。
「いや……それは、よい。して、本日は何用か」
三、吉良、訴える
吉良は、先日の儀式での失態を、できる限り言葉を選びながら、縋るような思いで語った。天井から降ってきた不可解な胡椒のくしゃみ、長すぎる袴に足をとられた無様な躓き、そしてそれを見つめていた居並ぶ者たちの、刺すような冷ややかな沈黙——。
ただ口にするだけでも、あの場に立ち尽くしたときの屈辱がじわじわとぶり返し、額に嫌な汗がにじんでくる。
「これは、明らかに誰かが意図して仕組んだ仕業にございます。柳沢様の御威光をもって、何とぞ裏の調べを、厳しく差配していただきとうございます」
四、上の空の返事
「うむ、うむ。それは、大変であったな」
柳沢の相槌は、どこか上の空であった。その視線は吉良の顔を一度も見ることなく、終始、文机の上に広げられた不穏な書状の山へと向いたままである。カサリ、カサリと、書類をめくる冷たい音だけが座敷に響き、吉良の切実な言葉が、どれほど相手の耳に届いているのか、まったく定かではない。
しばらくの沈黙の後、柳沢はふと顔を上げずに言った。
「して……何の話であったか」
そのあまりに無関心な問いに、吉良の心臓がどきりと跳ねた。
「く、くしゃみと、躓きの件にございます。あの松の廊下での……」
「ああ、そうであったな。うむ、それは、よろしくないことよ」
感情のまるでない、同じ調子の繰り返しの言葉。その響きに、吉良の胸の内に、底冷えするような嫌な予感がじわじわと広がっていった。
五、すれ違う言葉
「柳沢様、何卒、我が邸の護衛の増員なり、不審な者の調べの差配なりを……今一度、お力添えを……」
「うむ、考えておこう。近頃は、儂もいろいろと手が回らずでな」
柳沢の言葉は、まるで壁に向かって話しているかのように通り抜けていく。
「いろいろ、と申されますと……何か城内で大きな動きでも」
吉良がすがるように顔を覗き込もうとすると、柳沢はぴたりと書類をめくる手を止め、氷のように冷徹な目を吉良へ向けた。
「いや、それはよい。吉良殿には、関わりのないことよ」
その冷え切った一言で、二人の間の会話はぴたりと止まった。これ以上、この男に何を言っても、どんなに頭を下げても無駄であろうということが、吉良の心にも、ようやく残酷な事実として伝わってきた。
六、空振り、確定
「……承知いたしました。お忙しいところ、お邪魔をいたしました」
吉良は深く一礼し、座敷を辞した。柳沢は、吉良が立ち上がるよりも早く、すでに手元の書状の方へ視線を戻しており、部屋を出ていく後ろ姿への見送りの言葉すら、おざなりで冷淡なものであった。
七、吉良、独り邸へ戻る
帰り道、がたがたと揺れる駕籠の中で、吉良は小さく開けた窓から、薄暗い霜月の江戸の町を眺めていた。
これまで、自分がどれほど傲慢に振る舞おうとも、当然のように後ろに控えていてくれた絶対的な後ろ盾。その巨大な存在が、今は自分のことだけで手一杯らしく、自分など一顧だにしないということ——その冷然たる事実が、思いのほか鉛のように重く、吉良の細い胸にのしかかってきた。
「なはは……これは、困った……」
いつものように声を立てて笑おうとしたが、その声には、乾いた風のようにまるで力が入らず、駕籠の狭い空間に虚しく消えていくだけであった。
八、結び
本所松坂町の邸に戻った吉良を、一学が心配そうに出迎えた。
「殿、いかがでございましたか。柳沢様は……」
「うむ……何も、なかった」
それだけぽつりと答えると、吉良は力なく縁側へ向かい、そこへちょこんと座り込んだ。内蔵助にすり替えられた、中身の塩が湿気て黒くガチガチに固まったまがい物の小箱。それを膝の上に置いたまま、透き通らぬ暗い塩の塊をぼんやりと見つめ、吉良はしばらく微動だにしなかった。
夜空を見上げれば、霜月の月は、冷たい空気の中でまだ細く、今にも消え入りそうなほど頼りなかった。
今宵の一句
頼みても 応えぬ月の 遠さかな
あっちゅ寝太郎殿、どうだい!
原文をまったく削除せず、柳沢様の冷たい態度(書類のカサカサいう音や視線の拒絶)と、吉良殿が「なはは」と笑っても声が響かない寂しさを丁寧に書き足したよ。これによって、吉良殿の孤独がより深く、じわじわと伝わる回になったんじゃないかねぇ。
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




