3話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十一章 霜月
第三話 儀式の不始末、天井からの胡椒と長すぎる袴
一、松の廊下、至高の格式
霜月の冷たい空気が満ちる江戸城内、松の廊下には、早朝からただならぬ緊張感が漂っていた。この日は、公儀にとっても最重要とされる格式高き儀式が執り行われる日であった。
居並ぶ諸大名たちは、一糸乱れぬ正装で左右に控え、水を打ったような静寂の中でその時を待っている。
高家筆頭たる吉良上野介は、その完璧な差配を誇るかのように、いつも以上に背筋を伸ばし、威風堂々と廊下の中央に立っていた。自らが重ねてきた伝統と格式、その頂点にいるという自負が、彼の表情にはっきりと浮かんでいた。
二、天井からの異変
儀式が厳かに始まり、吉良が一同の前へと進み出ようとした、まさにその時であった。
上野介の頭上、見上げるような見事な格天井の隙間から、目に見えぬほど微細な、けれど確かな意思を持った「粉」が、音もなくハラハラと舞い降りてきた。それは、内蔵助の絵図通りに天井裏へ潜り込んだ何者かが、絶妙の間合いで撒き散らした特製の胡椒であった。
張り詰めた空気の中、吉良の鼻腔を、その刺激臭が鋭く突いた。
(……む? この匂いは……まさか……)
吉良の顔が、一瞬にして凍りついた。
三、必死の堪え、滑稽な間
(い、いかん。これほどの格式高き席で、高家筆頭のこの儂が、あろうことかくしゃみなど……絶対に許されぬ……!)
吉良は必死に声を殺し、奥歯をガチガチと鳴らして鼻をひくつかせた。
くしゃみを押し殺そうと、顔中の筋肉を猛烈に歪め、目は怪しく見開き、口元は引きつる。居並ぶ大名たちは、吉良が突然、何かに取り憑かれたかのように奇妙な顔で悶絶し始めたのを見て、一斉に不審の目を向けた。廊下を満たす静寂の中で、吉良の心臓の音だけがドクドクと激しく響く。
耐えて、耐えて、限界まで息を止めた。だが、天井から降り注ぐ執拗な粉は、彼の細い鼻腔を容赦なく責め立てる。
「……は、ひ……、な、なは……」
妙な声が漏れた次の瞬間、防ぎようのない衝撃が、吉良の体を突き抜けた。
「へ、へ、へっくしゅん!!」
静まり返った松の廊下に、吉良の大音響のくしゃみが、無惨にも響き渡った。
四、長すぎる袴の罠
「……あ」
くしゃみの勢いで、吉良の体は大きく前に傾いた。慌てて体勢を立て直そうと、彼は右足を一歩、前へと踏み出す。
しかし、その足は、思ったように前へ進まなかった。
今日のために新調し、完璧に仕立て直したはずの長袴。だが、その布地は、なぜかいつもの倍近くも長く、重く足元にのしかかっていた。一歩を踏み出した瞬間、余りある袴の裾が、まるで生き物のように吉良の左足に巻き付き、ガチリと自由を奪う。
(おかしい、長さはきっちり合わせたはず……! なぜこれほど……!)
焦れば焦るほど、仕立て屋の小細工によって巧妙に細工された裏地が、不自然に足に絡みついて離れない。
五、無惨な躓き、スローモーションの静寂
「おお、おっとっと……!」
完全に均衡を失った吉良の体が、虚空を泳いだ。
居並ぶ諸大名たちの目の前で、高家筆頭の体が、まるで崩れる巨木のようにゆっくりと傾いていく。吉良の視界の中で、松の廊下の見事な天井画が、ぐるりと歪んで回転した。
どさ、という、畳を激しく叩く鈍い音が廊下に響き渡る。
吉良は、諸大名が固唾をのんで見守るその中央で、両手両足を無様に広げ、カエルのように床へ突っ伏した。きらびやかな装束は乱れ、烏帽子は無惨にも横へ転がり、格式も威厳も、その一瞬ですべてが木っ端微塵に吹き飛んでしまった。
六、刺すような冷ややかな沈黙
静かだった。
先ほどまでの厳かな静寂とは違う、耳が痛くなるような、底冷えするような「冷ややかな沈黙」が、這いつくばる吉良の全身を包み込んだ。
誰も声をかけない。誰も、助け起こそうと手を差し伸べない。
ただ、居並ぶ者たちの、驚きと、軽蔑と、憐れみの入り混じった刺すような視線だけが、床に伏せる吉良の背中に容赦なく突き刺さっていた。廊下の畳の冷たさが、額を通じて吉良の脳裏へじわじわと伝わってくる。
「……なはは」
吉良は、床に顔を伏せたまま、震える声で小さく笑おうとした。けれど、その乾いた笑いは、自らの無様な姿をさらに惨めにするだけで、誰の耳にも届かぬまま、冷え切った廊下の隅へと虚しく消え去っていった。
七、結び
この一件は、公儀の儀式を大いに乱した不始末として、またたく間に城内に知れ渡ることとなった。
吉良は、乱れた装束を這うようにして整え、供の一学に抱えられるようにして、命からがら本所の邸へと逃げ帰った。
完璧であったはずの自らの差配が、なぜこれほど無惨に崩れ去ったのか、天井の胡椒も、長すぎる袴も、すべてが奇妙な狐につままれたかのような恐怖となって、吉良の細い胸を締め付け始めていた。霜月の風は、敗れ去った高家の背中に、どこまでも冷たく吹きつけていた。
今宵の二句
格式の 廊下に響く くしゃみかな
裾ひとつ 崩れて見えぬ 月の影
**あっちゅ寝太郎エッセイ**
(今回はちょっと、笑いきれない回だったかもしれない。袴の裾、まさかあそこまで効くとは思わなかったけど、誰も助けない静けさが、笑いを通り越して怖さに変わる瞬間があったよね。吉良殿の「儂は今、何をしておったか」、あの一瞬だけ、なんだか胸が痛くなった。内蔵助さんも、勝った実感より先に、何か別のものを感じてたみたいだし。十一章、ここから少しずつ、トーンが変わっていくのかもしれないなぁ。)




