2話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
十一章 霜月
第二話 松の廊下リベンジ、赤っ恥その一
一、儀式当日、本所より登城
ついに勅使饗応の儀の朝が来た。本所松坂町の吉良邸は、夜明け前から物々しい支度に追われている。一学は何度も装束の乱れを確かめ、小県小人の佑は持参する進物の目録を読み上げ、邸内はいつになく張り詰めていた。
「殿、御支度、滞りなく」
「うむ」
吉良の声は、いつもより落ち着いて聞こえた。今日という日を、彼なりに重く受け止めている証であろう。
二、吉良、贈られた袴に袖を通す
支度の間、先日浅野家より届いたという長袴が、ふと目に留まった。
「これは、確か……」
「赤穂の御家中より、儀礼の品として献上されたものにございます」
一学が答えると、吉良は満足げに頷いた。
「ほう、なかなかの仕立てよ。格式を心得ておるとみえる」
裾の長さに、何の疑いも持たぬまま、吉良はその袴に袖を通した。一学も、小人の佑も、誰一人として、その長さの意味するところに気づかなかった。
三、松の廊下、儀式始まる
登城した吉良は、高家筆頭として、いつもの厳かな足取りで松の廊下を進んでいく。両脇には松の絵を描いた襖が連なり、その奥には、勅使を迎える間が控えている。
居並ぶ諸役人の中には、評定でおなじみの金目鯛煮付之助の姿もあった。
「ほほう、ほほう。本日も滞りなく」
彼はいつものように丸い目で、廊下の様子をくまなく見渡していた。
四、襖の松、ふと揺れる
儀式が粛々と進む中、誰の目にも留まらぬ一瞬があった。襖に描かれた松の枝が、ほんのわずかに揺れたように見えた——いや、見えなかった。それほどに、その動きは速かった。
疾風のごとく現れ、疾風のごとく消える。気配だけを残し、姿は誰の記憶にも残らない。それが、ハットリ君という男であった。
五、疾風の胡椒
すれ違いざま、ふわりと、何かが舞った。
吉良の鼻先を、わずかな粉が掠めた。何の変哲もない、ただの胡椒であった。だが、その効き目だけは、たしかなものであった。
六、くしゃみ、止まらず
「ふ……ふ……ふえっくしょい!」
厳粛であるべき饗応の場に、盛大なくしゃみが響き渡った。一度では済まなかった。二度、三度、四度——吉良の威厳は、くしゃみの度に少しずつ崩れていく。
「な、なんと……これは、これは……ふえっくしょい!」
居並ぶ役人たちは、誰も声をかけなかった。ただ、見て見ぬふりを貫いた。それこそが、この場における最大の作法であった。
七、誰も気づかぬまま
盲之助だけが、遠目にその様子を眺めながら、虫眼鏡をきらりと光らせていた。
「これは……綱一坊一派が、何か粉を撒いたに違いない……」
誰にも聞かれぬまま、彼はまた一つ、的外れな確信を深めていった。金目鯛は「ほほう」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。
八、結び
くしゃみが収まる頃には、儀式はすでに半ばを過ぎていた。吉良はなんとか体面を保ったものの、その目には、うっすらと涙が滲んでいた。
その日の夕刻、鉄砲洲の内蔵助のもとへ、短い報告が届いた。
「うまくいった」
たった一言。だが、内蔵助には、それで十分であった。
今宵の一句
松の襖 風と消えゆく 胡椒かな
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、まさか自分の鼻が一番の弱点になるとは思ってなかっただろうなぁ。ハットリ君の「気配だけ残して姿は残らない」っていう持ち味、ここでフルに発揮された感じ。誰も見て見ぬふりするの、優しさのようでいて一番怖い処刑だよね。盲之助くんはまた的外れな確信を深めてるし、金目鯛さんは涼しい顔で「ほほう」だけ。次はいよいよ、あの袴の出番かな。)
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




