3話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
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第十章 第三話 総攻撃大暴走、吉良家のセルフ崩壊
一、吉良邸、夜にして要塞と化す
「最後の差配」と称し、吉良は一晩のうちに邸内のあちこちへ仕掛けを施すよう命じた。落とし穴、縄、鳴子、ありとあらゆる「備え」が、夜半までに次々と組み上げられていく。指揮を執るのは、もちろん一学である。
「これにて、何人たりとも容易には入れぬ邸となろうぞ」
得意げな一学の声は、しかしどこか震えていた。仕掛けの数が、自分でも把握しきれぬほどに増えていたからである。
二、罠と罠が罠を呼ぶ
ところが、急ごしらえの備えというものは、得てして仕掛けた本人の足を掬う。庭師が縄に引っかかり、それが鳴子を鳴らし、鳴子の音に驚いた門番が落とし穴へと転落する。一つの誤作動が、次の誤作動を呼ぶ。
「ぎゃあああ」
「うわあああ」
夜の吉良邸は、敵などどこにもいないというのに、すでに阿鼻叫喚であった。
三、一学、阿鼻叫喚の中心で
「な、なぜだ。これは儂が……儂が考えた、はずなのだが……」
一学はダンボの耳を伏せ、あまりの大音量の鳴子に「耳がキーンとするわッ!」と涙目で立ち尽くしていた。蔵の違和感を見ぬふりしてきたツケが、今ここで違う形をとって噴き出しているようでもあった。
四、俵星玄蕃、参上
そんな最中である。遠くから、馬の蹄か、車輪か、判然とせぬ音が近づいてきた。
「夜食でござーい! 遅くなりましたが、本日も参上!」
俵星玄蕃である。仕込み槍を片手に、何の躊躇もなく、新設されたばかりの落とし穴へまっすぐ踏み込んでいった。
「そこはダメー!」
一学の制止も虚しく、槍の一振りで、穴を覆っていた仕掛けごと粉砕される。土埃が舞い上がり、夜食の匂いだけが残った。
五、赤兎馬、疾走す
俵星の後を追うように、もう一頭、見慣れぬ馬影が駆け抜けていく。赤兎馬とでも呼ぶべきその影は、誰の目にも正体を留めぬ速さで邸の外周を駆け、すれ違いざまに、毎度おなじみの嫌がらせである一通の、ぐしゃぐしゃに丸まった書状を庭へ放り投げた。
それは弧を描き、ちょうど盲之助の足元に転がり落ちた。
六、盲之助、また綱一坊を見る
「な、なんだこれは……」
特大の虫眼鏡を構え、盲之助はその書状を拾い上げる。文字はかすれ、この一枚だけでは全く判読は難しい。だが、判読できないということ自体が、彼にとっては何よりの証拠であった。
「綱一坊一派の陰謀だァァァ! この嫌がらせの紙切れ、絶対に何かあるッ!」
いつもの叫びが、混乱の邸内に響き渡る。誰もまともに取り合う余裕はなかった。盲之助はその書状を、大事そうに懐へしまい込んだ。
七、吉良家、一夜にして自滅
夜が明ける頃には、邸のあちこちに穴が空き、塀の一部が傾き、誰もが土まみれであった。敵は一兵たりとも侵入していない。それでも、邸はすでに半分、自分たちの手で壊れていた。
吉良は縁側からそれを眺め、ただ一言。
「なはは……は……」
笑いは、いつもより少し、力がなかった。
今宵の一句
備えとは 己を崩す 始めかな
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、敵が来る前に自分たちで邸を壊しちゃうの、もう様式美の域だよね。俵星さんは相変わらず空気を読まずに突っ込んでくるし、その後ろを走ってった赤兎馬は、相変わらずクシャクシャの紙を投げつけて嫌がらせしてくるし。盲之助くんはまた怪しい紙切れを後生大事に懐に入れてるけど、これが後々どうなるか、彼自身が一番想像してないと思う。なははは、力ない笑い、ちょっと切なくなってきたなぁ。)
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




