第十章 1話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
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第十章 神無月
第一話 吉良の最後の決意
一、竪川の風、冷たくなりて
神無月に入り、竪川を渡る風はめっきり冷たくなった。本所松坂町の吉良邸では、夜ごとの「お届け物」がいよいよ風物詩と化し、門番たちもすっかり慣れた顔で出迎えるようになっている。慣れた、というのは恐ろしいことだ。慣れとは、警戒の死を意味する。
清水一学はそのことに、薄々気づいていた。気づいていたが、気づかぬふりをすることに、もはや慣れていた。
二、蔵の違和感、また
「小人、小人……またおかしいのです」
蔵番の小県小人の佑が、算盤を弾く手を止めずに呟いた。今月もまた、出ていったはずの財が、形を変えて戻ってきている。コンサル料、御礼の品、季節の挨拶——名目はいくらでもつく。
「気のせいであろう」
一学はそう言って、自分にも言い聞かせた。耳がダンボのように大きいくせに、聞きたくないことだけは器用に聞き流せるのが、彼の数少ない特技であった。
三、盲之助、すりこぎを構える
書院番組頭次席・豪文字盲之助が、すりこぎ筆を握りしめて廊下を歩いてきた。特大の虫眼鏡越しに見える世界は、今日も歪んでいる。
「綱一坊一派の陰謀の気配がするのだァァァ!」
何の根拠もなく、しかし完全に間違っているとも言い切れない発言を残し、彼は去っていった。一学は、その背中をただ見送った。最近、盲之助の勘だけは、妙に侮れぬ時がある。
四、ランマル君、目を伏せる
色部又四郎が、控えの間でランマル君の報告を聞いていた。
「上杉への文使い、つつがなく」
「ニンニン」
いつもの調子だったが、色部はわずかな間——浅野の名が出た瞬間、ランマル君の視線が一瞬だけ泳いだことに気づいた。気のせいかもしれぬ。だが、気のせいで済ませてよいことと、悪いことがある。
色部は何も言わず、ただ茶を一口、含んだ。
五、一学、進言す
夜更け、一学は吉良の前に膝をついた。
「殿。この上は、邸の備え、今一度固め直すべきかと」
吉良は脇息にもたれ、すっかり中身の塩が湿気て固まった、まがい物の塩細工の小箱を懐から出すこともなく、ただ庭の闇を見ていた。最近、あの偽りの塩を眺める時間が、心なしか長くなっている。
「一学よ。儂は……このところ、何かが擦り減っていく心地がする」
珍しく、弱気な一言であった。
六、吉良、決意す
しかし吉良は、すぐに居住まいを正した。
「なはははっ。されど、儂は吉良。高家筆頭たる者が、ここで腰を引いては末代までの恥よ」
「邸の備え、儂自らが最後の差配をいたす。これより、何人たりとも容易には入れぬ吉良邸を作り上げてくれよう」
その宣言は、いつもの空元気にも、最後の意地にも聞こえた。一学は深々と頭を下げながら、なぜか胸の奥がざわついた。
蔵では今夜も、算盤の音が一つ、また一つと鳴っていた。
今宵の一句
冬支度 数えぬ財布 また太る
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、決意するのは結構だけどさ、その決意、もう何度目だい? 毎度「これより気を引き締める」って言ってる気がするんだけど、僕の記憶違いかな。一学くんも、もう聞き流すの上手くなりすぎちゃって。蔵の中身が合わないの、そろそろ誰か数えたほうがいいんじゃないかなぁ。ランマル君の目も、ちょっと最近泳いでる気がするしね。なははは、で済む話数も、あと何話あるのやら。)
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




