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5話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』

刀を抜かない忠臣蔵です。

合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。

大目付は「ほほう」しか言いません。

御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。

謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。

笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。

全話予約投稿済み、毎日更新中。

九章五話 金目鯛の風見と九章総括

【長月・江戸城内、評定の間近く】

長月も終わりに近づき、江戸城の堀端には、すっかり秋の色が満ちていた。

楓の葉が、堀の水面にぽつりぽつりと落ちている。城内の松も、夏の濃い緑から、少し乾いた色へと変わり始めていた。評定の間に通じる廊下は、いつもより人の出入りが多く、衣擦れの音が静かに響いていた。

〈一〉金目鯛、思案す

大目付・金目鯛煮付之助は、自邸の書院で、丸い顔をさらに丸めて思案していた。

机の上に、帳面が一冊。

吉良邸視察の際に見た光景が、頭の中で何度も繰り返されていた。

色部又四郎の隙のない一礼。一学と小県小人の佑の、息の合った誤魔化し。豪文字盲之助の、的外れながら核心をかすめた一矢。

そして、播磨から来たという研ぎ師の噂。

金目鯛は、ソロバンではなく筆を取り、帳面に何やら丸い字で書き込んでいった。書いては消し、消しては書いた。

「ふむ、ふむ」

独り言が、書院に響いていた。

〈二〉金目鯛、本所へ足を運ぶ

その日の昼下がり、金目鯛は供を一人だけ連れて、本所松坂町へ足を運んだ。

吉良邸の視察、というわけではない。ただの散策、という体である。竪川沿いをゆっくりと歩き、橋のたもとの団子屋で足を止めた。

茶屋のばあさんが、盆を運んできた。

その丸い顔、丸い体つきを見て、ばあさんは思わず目を細めた。

「あら、お役人様。……まぁ、何とも、見事な煮付けだねぇ」

「は?」

「いやだ、お名前が金目鯛様だと聞いていたもので、ついね。よく煮えてそうな、いいお色をしてらっしゃる」

金目鯛は、丸い顔をさらに丸くして苦笑した。

「それは、褒め言葉と受け取ってよいものか、迷いますな」

「もちろん褒め言葉ですよ。煮付けは、美味しいものですから」

供の者が、後ろで咳をこらえていた。

団子を頬張りながら、金目鯛は何気なく聞いた。

「この辺りに、播磨から来た研ぎ師がいると聞いたが」

ばあさんは、しばらく考えてから答えた。

「ああ、あのお方ね。静かなお侍さんでしたよ。お侍さんなのに、研ぎ師の格好をしていてねぇ」

「お侍さん、と?」

「いやだ、私の勘違いかもしれませんねぇ。歩き方が、ちょっと武家風だったってだけの話で」

金目鯛は、団子を一つ食べ終え、もう一つ手に取った。

「ふむ、ふむ」

その「ふむ、ふむ」の中に、いくつもの符合が、静かに重なっていった。

〈三〉浅野邸の方角を望む

団子屋を出た金目鯛は、橋の上で足を止めた。

橋の向こうに吉良邸の白壁、そして川の向こう側には、同じく本所に居を構える浅野邸の方角がある。直接見えるわけではないが、金目鯛の頭の中には、その距離と位置関係が、地図のように広がっていた。

色部又四郎が見ているのは、吉良邸の中の仕掛けだけだ。

播磨の研ぎ師が見ているのは、おそらく、もっと先のものだ。

金目鯛は、丸い目を細めた。

「吉良殿の財布、それから播磨の研ぎ師……これは、風向きを見極める時期かもしれませぬな」

供の者は、何も答えなかった。聞いていなかったのか、聞こえなかったのか、定かだった。

〈四〉評定の間にて

数日後、城内の評定の間で、大目付の月次報告が行われた。

居並ぶ重臣たちの前で、金目鯛は丸い顔のまま、いつもの愛想笑いを浮かべていた。

「吉良家の備え、まずは万全と申し上げてよろしいかと存じます」

これまでの金目鯛なら、そこで報告を終えていただろう。

しかし今日は、一言だけ付け加えた。

「ただ、近頃、吉良邸の内情は何やらユンビタの領収書だの財宝のハッキングだのと騒がしく、少々、身から出た錆の匂いがいたします。播磨より旅の者が江戸に出入りしておるとの噂もあり、公儀としては深入りせぬよう、目を配っておく所存でございます」

重臣の一人が、軽く頷いた。深く気にする者は、その場にはいなかった。

金目鯛は、それだけ言うと、また丸い愛想笑いに戻った。

しかし、その一言は、確かに口から出た。

それまでの金目鯛なら、決して口にしなかった一言だった。

〈五〉吉良邸、変わらぬ日常

同じ頃、吉良邸では、いつもと変わらぬ午後が続いていた。

吉良上野介は、縁側で赤穂の塩細工(偽物)を撫でながら、扇をぱたぱたと動かしていた。

「なははは。秋も、悪くないのう」

清水一学は、神君拝領ユンビタA丸を本日も適量服用し、気力満々で庭の見回りをしていた。色部又四郎は、邸の隅々を、今日もまた静かに歩いていた。

豪文字盲之助は、植木に向かって新たな豪文字を書き殴っていた。

「秋風ァァァ! これも綱一坊の仕業に相違ない!!」

それは、はずれであった。

ソソソの班長は、縁台でお茶を飲みながら、うとうとしていた。

「ソソソのソ……大目付様が、何やら気にしておられるとか……ソソソ……」

誰も聞いていなかった。

〈六〉浅野邸にて、九月の総括

夜、浅野邸の広間で、安兵衛がハットリ君からの報告を、大石に伝えていた。

「内蔵助殿、大目付・金目鯛様が、評定の場で『播磨の旅の者』に言及されたとのことです。視察の際、小人の佑殿が緊張のあまり『財宝のハッキングが……』と口を滑らせ、一学殿が『ただのユンビタの領収書です!』と絶叫したのを、金目鯛様はしっかり不審に思われたようで」

大石は静かに笑った。

「なははは、と突っ込まれましたか」

安兵衛は真面目な顔で頷き、続けた。

「はい。しかし、大目付様が公式の場でその噂に言及されたということは、これは、危ういのではございませぬか」

大石は、首を振った。

「いえ。これは、好機です」

「好機、と?」

「金目鯛殿は『吉良の内情は怪しいから公儀は手を引け』と暗に重臣たちに伝えたのです。すでにこちら側を、敵とは見ていないということです」

安兵衛は、その言葉を、しばらく考えた。

「では、味方になる、と」

「味方とまでは申しませぬ。ただ、風見鶏は、沈むと分かった泥舟からは真っ先に飛び去るもの。強い風には、決して逆らいませぬ」

座敷の隅で、浅野内匠頭が、その会話を黙って聞いていた。

やがて、内匠頭が口を開いた。

「ロジカルにインプットしました。九月は、表立った動きなく、静かに進展した、ということですね」

「左様でございます」

大石は、頭を下げた。

〈七〉長月の終わり

夜が更け、大石は一人で縁側に出た。

竪川を渡る風が、少し冷たくなっていた。長月も終わり、神無月が近づいている。

吉良邸の灯が、川の向こうに、ひとつだけ灯っていた。

大石は、懐の塩細工を取り出し、月明かりにかざした。

「吉良殿」

静かに呟いた。

「風が、少しずつ、こちらへ向いてきております」

塩細工を懐へ戻し、大石は夜空を見上げた。

長月の月は、すでに少し欠け始めていた。

今宵の一句

長月の 月も欠けゆく 評定の間

あっちゅ寝太郎エッセイ

(吉良殿、風見鶏が動き始めましたよ)

金目鯛煮付之助という人は、評定の場で、たった一言を付け加えました。それまでなら絶対に言わなかった一言です。風見鶏が、ほんの少し向きを変える。その小さな動きが、実は一番恐ろしいものなのかもしれません。団子屋のばあさんに「見事な煮付けだね」と言われていたあたり、本人もまだ余裕がありましたが、九月は、表立った戦いのない、静かな月でございました。しかし静かであればこそ、いろいろなものが、確かに動いておりました。吉良殿、長月の月は、もう欠け始めておりますよ。なははは。

史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。

ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。

なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。

ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。

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