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第九章 1話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』

九章一話 大石内蔵助、江戸入り

【長月・江戸・品川から本所へ】

元禄十四年、長月。

江戸に秋が来ていた。

品川沖の海が灰色に凪ぎ、空の高いところを鰯雲が流れていく。東海道の並木松が風に揺れ、道行く人の着物が一枚増えていた。江戸の町は相変わらず騒がしく、大八車が行き交い、棒手振りの声が路地に響き、どこかで犬が吠えていた。

砥石小内蔵助一行が品川の宿を発ったのは、夜明けとともにである。

〈一〉江戸入り

東海道から江戸へ入る道すがら、大石内蔵助は黙って町を見ていた。

八丁堀、日本橋、そして本所へ向かう。

町の賑わいは赤穂とは比べ物にならない。棒手振りが野菜を売り、香具師が啖呵を切り、子供たちが路地を駆け抜けていく。大石はそれらを静かに見ながら歩いた。急がない。しかし、確実に何かを見ていた。

本所松坂町の手前、竪川の橋の上で、大石は足を止めた。

橋の上から、吉良邸の白壁が見えた。

長月の朝の光の中で、白壁はまだ眩しかった。

大石はしばらくそれを見ていた。

「立派な邸でございますね」

隣に立った大石主税が言った。

「ええ」

「中はもっと立派だとか」

「そうでしょうね」

大石は白壁から目を離し、また歩き始めた。

その後ろで、寺坂吉右衛門が橋の袂の団子屋に吸い込まれていった。

ハットリ君の気配が、無言で団子屋へ向かった。

富森助右衛門は、橋の向こうのお女中を見て固まった。

矢頭右衛門七が、両脇から抱えて移動させた。

〈二〉浅野邸、再会

浅野邸に着いたのは、昼四つ(午前十時)のことである。

堀部安兵衛が門前に出て待っていた。大高源五と片岡源五右衛門も並んでいた。安井彦右衛門はソロバンを抱えて玄関先で震えていた。

安兵衛は、大石の顔を見た瞬間、深く頭を下げた。

「内蔵助殿、お待ちしておりました」

「ご苦労をおかけしました」

大石は静かに答え、一行を見渡した。

江戸組と赤穂組が、門前で顔を揃えた。

安井彦右衛門がソロバンをパチパチと叩き始めた。

「これで総勢四十七名、揃いましてございます」

誰かが、小さく息を吐いた。

〈三〉浅野内匠頭との対面

座敷に通され、浅野内匠頭が現れた。

大石内蔵助は、内匠頭の前で静かに頭を下げた。

内匠頭も、頭を下げた。

顔を上げた内匠頭の目が、大石の顔を見た瞬間、一瞬だけ動いた。

「内蔵助……」

その声は、いつもの「ロジカルにインプット」ではなかった。幼い頃、稽古の合間に水をねだったような、剥き出しの声だった。

座敷に、わずかな沈黙が落ちた。

内匠頭は、すぐに小さく咳払いをした。

「失礼。ロジカルにインプットしました。内蔵助殿が来てくださった」

普段の涼しい顔に戻っていた。しかし戻すのに、一拍だけ余分な時間がかかった。

大石は、その一瞬を見逃さなかった。表向きは何も言わず、ただ深く頭を下げた。

「殿のお守りを仕った頃と、変わられませぬな」

「……それは、褒め言葉と受け取ります」

内匠頭は、わずかに目を逸らした。涼しい顔のまま、しかし耳の先だけが、心なしか赤かった。

大石は、それ以上は何も言わなかった。

しばらく、沈黙があった。

言葉が要らない二人だった。

やがて内匠頭が、表情を整え直して口を開いた。

「吉良殿は、今日も縁側で赤穂の塩細工を撫でておられるそうです」

大石は、静かに笑った。

「なははは、と」

「ええ、なははは、と」

二人の間に、また静かな間があった。

その間の中に、言葉にならない何かが、満ちていた。

内匠頭は、ふと付け加えた。

「内蔵助殿がいなければ、某はもっと早く刀を抜いていたでしょう」

「存じております」

大石は、それだけ答えた。

座敷の外で、秋の風が竪川を渡っていく音がした。

〈四〉お決まり三点セット、長月版

その夜のことである。

浅野邸に移った一行が、それぞれの部屋に落ち着いた亥の刻、竪川沿いの闇から地響きのような音が近づいてきた。

「また、お届け物でぇ〜す」

郵便赤マークのゼッケンを貼った大八車が、時速百キロで本所松坂町を爆走し、クシャクシャの書状を吉良邸の門へ投げ込んで、次の瞬間には闇の中へ消えていった。

吉良邸では、清水一学が縁側で茶を飲んでいたが、書状が足元に落ちた瞬間、茶碗を取り落とした。

涙目。白目。

「……まだ来おる」

色部又四郎が、書状を一瞥して静かに言った。

「定期便は変わらんな」

「左様でございます……」

その奥から、豪文字盲之助がすりこぎ筆を携えてのしのしと現れた。

「一学殿! 聞こえたか! あの爆走の方角、真西でございますぞ! これは砥石街道の暗号に相違ない!! 綱一坊だァァァ!」

色部が、ふと立ち止まった。

砥石街道。

その二文字を、色部は頭の中で一度繰り返した。

「……なるほど」

それは、はずれであった。

しかし色部は、何も言わなかった。

縁台では、ソソソの班長がお茶を飲みながらうとうとしていた。

「ソソソのソ……そういえば、赤穂から研ぎ師が来たとかいう話を……ソソソ……」

誰も聞いていなかった。

〈五〉大石、夜の竪川

夜が更けた。

大石内蔵助は、一人で浅野邸の縁側に出た。

竪川の水音が聞こえる。長月の夜風は、葉月よりひとつ涼しかった。川面に月が映り、ゆらゆらと揺れている。

吉良邸の白壁が、月明かりの中に浮かんでいた。

大石は懐から赤穂の塩細工を取り出し、月明かりにかざした。

鶴の形をした塩細工が、白く光った。

「吉良殿」

大石は静かに呟いた。

「江戸へ参りました」

川の向こうの吉良邸では、吉良上野介が縁側で赤穂の塩細工(偽物)を撫でながら、扇をぱたぱたと動かしていた。

「なははは。涼しいのう」

長月の夜風が、竪川をわたった。

今宵の一句

長月や 川隔てたる 二つの月

あっちゅ寝太郎エッセイ

(吉良殿、川の向こうに来てしまいましたよ)

竪川を挟んで、吉良邸と浅野邸が向かい合っております。大石内蔵助が縁側で本物の塩細工を月にかざしている頃、吉良殿は偽物の塩細工を撫でながらなははは、と笑っておられる。この二つの月の話は、川一本の距離でございます。静かですねぇ。しかしその静けさの下で、何かが動き始めております。吉良殿、墓穴の続きを、どうぞよろしくお願いいたします。なははは。

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