5話 一応完: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
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八章五話 砥石小内蔵助の珍道中・後編
【葉月・京都から東海道・品川宿へ】
〈一〉一力茶屋の夜、薩摩芋甘太郎
翌朝の出立に遡る、その夜のことである。
一力茶屋の別座敷に、一人の武士が座っていた。
がっしりとした体格。日焼けした顔。腰の物が、他の者より心なしか重く見えた。薩摩訛りの強い男で、膳に向かいながらぶつぶつと何か呟いていた。
薩摩芋甘太郎。薩摩藩士、示現流の遣い手である。
甘太郎は、隣の座敷から聞こえてくる静かな笑い声に、ふと箸を止めた。
男の笑い声だった。静かで、深い。
甘太郎は立ち上がり、廊下へ出た。
隣の座敷の襖が、わずかに開いていた。
中を覗くつもりはなかった。しかし、鴨川に面した縁側に座る人影が、自然と目に入った。
研ぎ師風の男が、月を見ていた。
それだけだった。
しかし甘太郎は、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
背筋が伸びていた。力んでいない。ただ、そこにあった。
甘太郎は廊下に立ったまま、腕を組んだ。
「よかわからんが」
小声で呟き、自分の座敷へ戻った。
〈二〉翌朝の出立と遭遇
翌朝、一力茶屋を発った。
鴨川に朝靄が漂い、祇園の町はまだ眠っていた。提灯の灯が消え、石畳が朝露に濡れている。遠くの東山が、薄紫の空の中にぼんやりと浮かんでいた。
砥石小内蔵助一行が門を出ると、そこに見慣れない人影が一つ、立っていた。
二十代後半、生真面目な顔をした若い武士である。旅支度を整え、荷物を背負い、直立不動で立っていた。
吉田忠左衛門が小声で言った。
「富森殿、いつから?」
「昨夜より」
「昨夜から外で?」
「はい」
誰も何も言わなかった。
富森助右衛門は、そういう男であった。
一行が門を出て歩き出したそのとき、向こうから薩摩芋甘太郎が歩いてきた。
鉢合わせた。
甘太郎は、大石内蔵助の顔を見た。
大石は、甘太郎の顔を見た。
一瞬だった。
甘太郎は、立ち止まった。昨夜、縁側で月を見ていた男だ、とわかった。
大石も、立ち止まった。
甘太郎は、大石を上から下まで見た。研ぎ師の旅支度。しかし、その立ち方が研ぎ師ではなかった。
甘太郎は腕を組み、大石の顔をじっと見た。
「武士か」
大石は静かに笑った。
「研ぎ師でございます」
甘太郎は、その笑顔を三秒見た。
それから鼻を鳴らした。
「よかわからんが」
そう言って、横を通り過ぎた。
通り過ぎながら、ひとつだけ付け加えた。
「悪い顔じゃなか」
大石は、その背中に向かって静かに頭を下げた。
〈三〉東海道、道中と島田宿の石化
京都を発ち、東海道を江戸へ向かう。
葉月も末になり、道の端のすすきが穂を出し始めていた。風の中に、かすかに秋の気配が混じっている。蝉の声が遠くなり、代わりに虫の声が近くなっていた。
一行は黙々と歩いた。
先頭は大石内蔵助。静かに、しかし確実に前へ進む歩き方だった。
その後ろを大石主税が歩き、吉田忠左衛門と原惣右衛門が続いた。
矢頭右衛門七は、道中ずっと元気であった。元気すぎた。峠道でも平地と変わらない速度で歩き、息も乱れなかった。その代わり、茶屋を見るたびに寺坂吉右衛門と顔を見合わせた。
寺坂吉右衛門は、本日すでに二度迷子になっていた。一度目は茶屋の団子に釣られ、二度目は道端の地蔵に手を合わせているうちに一行が見えなくなった。両度ともハットリ君が無言で迎えに来た。
富森助右衛門は、黙って歩いていた。生真面目な顔のまま、前を向いて、一定の歩幅で歩いていた。
その富森が、島田宿の茶屋の前で突然止まった。
茶屋のお女中が、盆を持って出てきたのである。はつらつとした、愛嬌のある娘であった。
富森は、固まった。
全身が、石になった。
目だけが、お女中を追っていた。
吉田忠左衛門が気づき、富森の袖を引いた。富森は動かなかった。原惣右衛門が反対側の袖を引いた。それでも動かなかった。
大石主税と矢頭右衛門七が両脇から抱えて、ようやく移動した。
富森は、引きずられながら言った。
「申し訳ございませぬ。拙者、あの娘の『接客インフラ』に完全にハッキングされてしまいました……」
大石内蔵助は、振り返ることなく歩き続けた。
ただ、肩がわずかに揺れた。
〈四〉江戸へ、もう少し
東海道を東へ進む。
箱根を越え、小田原を過ぎ、平塚、藤沢と歩いた。江戸まで、あと二日ほどの距離になった。
夕暮れの宿場で、大石主税が父の隣を歩きながら言った。
「父上、さっきの薩摩の方は」
「さあ」
「敵ですか、味方ですか」
大石はしばらく歩いてから答えた。
「どちらでもない、でしょうね」
「どちらでもない?」
「そういう人が、時々います」
主税は、その言葉を考えながら歩いた。宿場の灯が、夕闇の中にぽつぽつと灯り始めた。
後ろで、寺坂吉右衛門が宿場の団子屋に吸い込まれていった。
ハットリ君の気配が、団子屋の方向へ動いた。
富森助右衛門は、宿場の茶屋のお女中を見て、また固まった。
矢頭右衛門七が、富森の両脇を抱えて移動させながら言った。
「富森殿、そろそろ慣れませぬか」
富森は、引きずられながら大真面目に答えた。
「申し訳ございませぬ」
夕暮れの東海道を、一行はゆっくりと進んだ。
江戸まで、もう少しである。
〈五〉江戸の手前、最後の夜
品川宿。
江戸の入口である。
砥石小内蔵助一行は、品川の宿に泊まった。明日の朝には江戸へ入る。
大石内蔵助は、夜、一人で宿の縁側に出た。
江戸の空が、遠くに見えた。
町の灯が、地平線のあたりをぼんやりと赤く染めている。竪川も、本所松坂町も、吉良邸も、その灯の中にある。
大石は、懐から赤穂の塩細工を取り出した。
月明かりの中で、鶴の形をした塩細工が、白く光った。
「吉良殿」
大石は、静かに呟いた。
「墓穴の続きを、お願いいたします」
塩細工を懐へ戻し、大石は立ち上がった。
品川の夜風が、さわりと吹いた。
今宵の一句
品川や 灯遠くに 秋近し
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、江戸の外まで来てしまいましたよ)
富森助右衛門という人は、史実では四十七士の中でも真面目で几帳面な人物として知られています。そんな人がギャル好きで石化するというのは、完全に私の創作ですが、真面目な人ほど好きなものの前では動けなくなる、というのは何となくわかる気がします。薩摩芋甘太郎との遭遇は、この先の伏線です。「よかわからんが、悪い顔じゃなか」、この一言が、後々効いてきます。吉良殿、品川まで来た研ぎ師の懐には、本物の塩細工が入っておりますよ。なははは。




