4話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
刀を抜かない忠臣蔵です。
合法的な嫌がらせだけで、吉良邸を精神崩壊に追い込みます。
大目付は「ほほう」しか言いません。
御庭番は重要情報を漏らしますが誰も聞いていません。
謀略探偵は何でも「綱一坊一派の陰謀」と言います。
笑えます。たまに泣けます。最後は春が来ます。
全話予約投稿済み、毎日更新中。
第八章四話 砥石小内蔵助の珍道中・前編
【葉月・東海道、赤穂より江戸へ】
播磨を発ったのは、夜明け前のことであった。
赤穂の塩田が朝靄の中に溶け、瀬戸内の海が白く光り始める頃、砥石小内蔵助一行は城下を静かに後にした。
一行の編成はこうである。
大石内蔵助(砥石小内蔵助・刀の研ぎ師)、大石主税(砥石小主税・見習い研ぎ師)、吉田忠左衛門(荷物持ち・百姓風)、原惣右衛門(荷物持ち・商人風)、矢頭右衛門七(荷物持ち・元気すぎる若者)、寺坂吉右衛門(伝令担当・よく迷子になる)。
大高源五・片岡源五右衛門は先行して江戸へ戻っている。ハットリ君は、いる。どこかに。
総勢七名、表向きは旅の研ぎ師一行である。
〈一〉関所にて
東海道最初の難所は、新居の関所であった。
関所番の同心が、一行の前に立ちはだかった。がっしりとした体格の、目の鋭い男である。
「通り手形、拝見」
吉田忠左衛門が、懐から手形を取り出した。よく整えられた偽造書類である。播磨の砥石商・砥石屋惣兵衛の出した通り手形、となっている。
同心は手形をじっくりと眺めた。
それから一行を見渡した。
砥石小内蔵助、すなわち大石内蔵助は、笠を少し上げて同心と目を合わせた。
にこりと笑った。
静かな笑顔だった。
同心は、その笑顔を三秒ほど見ていた。
それから手形を返した。
「通れ」
吉田忠左衛門が、後ろで静かに息を吐いた。原惣右衛門のソロバンを持つ手が、わずかに震えていた。矢頭右衛門七は何も気づいておらず、関所の向こうの景色を眺めていた。
寺坂吉右衛門は、いなかった。
「……寺坂殿は?」
吉田が小声で言った。
一同が振り返ると、寺坂は関所の手前五十間のところで、のんびりと茶屋に入るところだった。
ハットリ君の気配が、茶屋の方向へすうっと動いた。
五分後、寺坂が小走りで戻ってきた。
「申し訳ございませぬ、茶屋に良い団子があったもので」
誰も何も言わなかった。
〈二〉東海道、道中にて
箱根の山を越えた。
葉月の山道は、まだ蝉が鳴いていた。しかし江戸に近づくにつれ、風の中に秋の気配が混じり始めていた。すすきの穂が、道の端でかすかに揺れている。
砥石小内蔵助は、黙って歩いていた。
大石主税が、父の隣を歩きながら口を開いた。
「父上、江戸では何をなさるおつもりで」
「研ぎ師の仕事をします」
「それは偽名の話でしょう」
「そうですね」
大石は歩きながら、道の先を見た。
「吉良殿に、墓穴を掘っていただく」
「どうやって」
「吉良殿は、すでに掘り始めておられる」
主税は、その言葉の意味を考えながら歩いた。箱根の山道を半分ほど下りたところで、ようやく輪郭が見えてきた気がした。
その後ろで、矢頭右衛門七が元気よく歩きながら言った。
「腹が減りましたな!」
吉田忠左衛門が、こめかみを押さえた。
〈三〉京都・一力茶屋
道中、京都に一泊することになった。
一力茶屋。
祇園の中でも知られた茶屋である。葉月の夕暮れ、提灯に灯が入り始め、川床では虫の声が聞こえ始めていた。鴨川の水音が、座敷まで届いてくる。
砥石小内蔵助一行は、奥の座敷に通された。
膳が出た。酒が出た。
吉田忠左衛門と原惣右衛門は、緊張した顔で膳に向かっていた。矢頭右衛門七は、膳が出た瞬間に顔を輝かせた。寺坂吉右衛門は、座敷の入口を間違えて隣の座敷に入りかけ、ハットリ君に無言で引き戻された。
大石内蔵助は、静かに酒を飲んでいた。
そこへ、座敷の襖がすうっと開いた。
「ご機嫌よろしゅうございます」
夕霧太夫であった。
〈四〉夕霧太夫、困惑する
夕霧太夫は、浅野側のスパイである。
一力茶屋に出入りする旅の武士を観察し、怪しい者がいれば報告する。その役目を担って久しい。今夜の客も、その延長で座敷に入ってきたのである。
しかし。
砥石小内蔵助の顔を見た瞬間、夕霧太夫は、わずかに止まった。
止まった理由は、夕霧太夫自身にも説明が難しかった。ただ、静かな目をした人だ、と思った。深い川の底のような目だった。
「研ぎ師の皆さんで?」
「ええ」
大石が静かに答えた。
「江戸へ向かわれる?」
「ええ」
また静かに答えた。
夕霧太夫は、試すつもりで続けた。
「赤穂の塩細工は、ご存知ですか」
大石は、一瞬だけ目を細めた。
それから静かに笑った。
「知っております」
夕霧太夫は、その笑顔を見て、これ以上試すのをやめた。
理由は、うまく言えなかった。
ただ、試す必要がない、と感じたのである。
その頃、最年少の矢頭右衛門七が座敷の隅で、夕霧太夫の方をちらちらと見ながら、鼻の下をじわじわと伸ばしていた。吉田忠左衛門がそれを見つけ、「これ右衛門七、鼻の下のインフラが伸びすぎておるぞ。引き締めい」と引き剥がそうとするが、右衛門七は「忠左衛門殿、これも大人のロジカルインプットにございます!」とわけのわからぬ供述をして動かなかった。忠左衛門がこめかみを押さえて肘で激しく突くと、右衛門七は慌てて咳払いをして居住まいを正した。
〈五〉夜の鴨川
夜が更けた。
他の者が眠りについた後、大石内蔵助は一人で縁側に出た。
鴨川の水音が聞こえる。葉月の京都の夜は、江戸より涼しかった。川面に月が映り、ゆらゆらと揺れている。
夕霧太夫が、いつの間にか隣に来ていた。
「赤穂の塩細工、本物は美しゅうございますね」
「ええ」
「江戸の吉良殿が持っているのは、偽物だとか」
「そのようですね」
大石は月を見ながら答えた。
夕霧太夫は、しばらく川を見ていた。
「吉良殿は、気づいておられないのですか」
「なははは、と笑いながら撫でておられるそうです」
夕霧太夫は、思わず笑った。
こらえようとしたが、こらえきれなかった。
大石も、静かに笑っていた。
鴨川の水音だけが、しばらく続いた。
今宵の一句
月映えや 鴨川揺れる 旅の宵
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、大物が京都を通り過ぎましたよ)
砥石小内蔵助、刀の研ぎ師。関所の同心も、夕霧太夫も、この人の前では試す気が失せてしまうようです。静かな人というのは、不思議なものですね。試そうとした瞬間に、試す側が何か感じてしまう。吉良殿、江戸で赤穂の塩細工(偽物)を撫でながら「なははは」とやっているうちに、本物の塩細工を懐にしまった人物が、鴨川の月を見ておりましたよ。さて、明日はいよいよ薩摩との遭遇です。なははは。




