2話 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
九章二話 浅野邸・作戦会議
【長月・浅野邸、翌朝】
朝靄が竪川を覆っていた。
長月の朝は、葉月よりひとつ冷たい。本所松坂町の屋根に薄く霜が降りたような白さが乗り、棒手振りの声もどこか乾いた響きを持っていた。
浅野邸は、本所の竪川沿いの一角にある。川の水面の匂いが、朝の風に混じって庭先まで届く。竪川を挟んだ本所松坂町の吉良邸とは、目と鼻の先の距離であった。川を挟んで向かい合う両邸の間には、静かな緊張感が漂っている。
浅野邸の広間に、人が集まっていた。
〈一〉広間に揃う面々
上座に浅野内匠頭。
その脇に大石内蔵助、大石主税。
居並ぶのは、堀部安兵衛、大高源五、片岡源五右衛門、ハットリ君(座っているのかいないのか、よくわからない位置に)、安井彦右衛門。
そして赤穂組の吉田忠左衛門、原惣右衛門、矢頭右衛門七、寺坂吉右衛門、富森助右衛門。
総勢十三名が、広間に揃った。
安井彦右衛門が、ソロバンを抱えたまま、震える声で言った。
「これだけの人数が一堂に……前代未聞でございます……」
誰も答えなかった。
〈二〉大石、現状を問う
大石内蔵助が、静かに口を開いた。
「まず、現状を確認したい」
堀部安兵衛が頷き、これまでの経緯を語った。
風雲吉良城の防備。コンサル契約による財宝の逆流。色部又四郎の到着と、その鋭さ。飛び石の異変に気づきかけたこと。ランマル君の綱渡り。
大石は、黙って聞いていた。
聞き終えると、しばらく沈黙した。
「色部殿という方は」
「只者ではございませぬ」
安兵衛が答えた。
「なるほど」
大石は、それだけ言った。
片岡源五右衛門が、思わず身を乗り出した。
「内蔵助殿、いかがなされますか。色部殿が、すべて見抜いてしまえば……」
「見抜かせればよい」
座が、静まった。
〈三〉大石の方針
「見抜かせる、と?」
大高源五が聞き返した。
大石は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「色部殿が見抜くのは、トラップの仕掛けです。仕掛けが見抜かれたところで、何も困らない」
「困らない、のですか」
「困るのは、吉良殿ご自身が、見抜けぬものです」
座の中に、わずかな緊張が走った。
大石は続けた。
「吉良殿は、すでに財宝を塩細工と思い込んでおられる。すでに、コンサル料という名目で、自らの財をご自身の屋敷へ還流させておられる。これらは、誰にも見抜かれておりませぬ」
「色部殿にも?」
「色部殿は、邸の構造を見ております。財布の中身までは、見ておりませぬ」
吉田忠左衛門が、静かに唸った。
「目に見えるものを守る者と、目に見えぬものを動かす者、その差、ということでございますか」
「左様」
大石は頷いた。
〈四〉浅野内匠頭、確認する
内匠頭が、口を開いた。
「ロジカルにインプットしました。色部殿には、表のトラップを見破られても構わぬ、という方針ですね」
「ええ」
「ただし」
内匠頭は、わずかに目を細めた。
「色部殿が、財布の異変にまで気づいた場合は」
大石は、その問いに少し考えた。
「その場合は、また別の手を打ちましょう」
「謹んで受託」
内匠頭は、それだけ言った。
矢頭右衛門七が、元気よく手を挙げた。
「内蔵助殿! 某は何をすればよろしいか!」
「お任せします」
「承知! では拙者、吉良邸の財布のパスワードを総当たりでハッキングして参ります!」
「それはただの泥棒です」
と吉田忠左衛門が即座にこめかみを押さえた。
〈五〉ハットリ君、報告す
会議の終わり際、ハットリ君が静かに口を開いた。
「ニンニン。一つ、ご報告がございます」
一同が、ハットリ君の方を見た。正確には、ハットリ君がいると思われる方向を見た。
「ランマル君の様子が、近頃おかしゅうございます。色部殿の鋭さに、冷や汗をかいておるようで」
大石が、それを聞いて静かに言った。
「ランマル殿は、いずれ、こちら側に近づいてくるでしょう」
「左様でございますか?」
「人は、見ているものに引かれます。ランマル殿は、すでにこちら側を、長く見てきております」
ハットリ君は、それ以上何も言わなかった。
ただ、気配がわずかに、納得したように緩んだ。
〈六〉広間を出て
会議が終わり、一同が散っていく中、大石主税が父に近づいた。
「父上、色部殿の財布云々の話、本当にできるのですか」
「さて」
「さて、とは」
「やってみなければ、わかりませぬ」
主税は、その答えに少し驚いた。父が「わからない」と言うのを、初めて聞いた気がした。
大石は、廊下の向こうの庭を見ながら、静かに付け加えた。
「ただ、吉良殿は、今のところ、塩細工を撫でておられる。それだけで、十分に進んでおります」
「今は、これでよい。先のことは、また日を改めて」
その言葉の奥に、何か長い道筋が見えるようだった。主税には、まだその輪郭がはっきりとは見えなかった。
竪川の方角から、秋の風が廊下まで届いていた。
今宵の一句
秋風や 軍議の声の 低くなる
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、軍議が始まりましたよ)
大石内蔵助の方針は、「見えるものは見抜かれて構わない、見えないものだけ守ればよい」というものでした。これは存外、現代にも通じる話かもしれません。色部又四郎という優秀な人材が、表のトラップに気を取られている間、本当に大事なものは別のところで静かに動いている。本所の中で吉良邸と浅野邸が川を挟んで向かい合っている、その目と鼻の先の距離でありながら、両者の間には静かな時間が流れているのでしょう。吉良殿、財布の中身、最近数えましたか? なははは。




