2話『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
【第六章 2話】(六月・水無月)
タイトル:偽ドレスコードと、呉服インフラのステルスハッキング
1.小タイトル:本所の呉服問屋と、夏の暑さに揺れる暖簾
六月も半ばを過ぎ、本所松坂町の表通りには、夏の強い日差しの中、呉服問屋の暖簾がだらりと揺れておりました。勅使饗応に向けて、江戸中の大名家が礎装の誂えを急ぐ季節。問屋の前には、反物を山と積んだ大八車が列をなし、丁稚たちが額の汗を拭いながら忙しく行き来しております。
吉良邸でも、コンサル第一弾として「礎装指導」の準備が進められておりました。
「なはは! 小人、小人、例の『指導書』はできておるか?」
「ハッ、こちらに……。烏帽子と直垂の組み合わせ、それに帯の色まで、すべて吉良家秘伝の『高家流作法』として記しましてございます」
小県小人の佑が差し出した指導書を、上野介はニヤニヤと眺めました。実はこの「高家流作法」、烏帽子の角度から直垂の色合わせまで、わざと一つひとつが微妙に間違っており、勅使饗応の本番で浅野と亀井に大恥をかかせるための仕掛けでございました。
2.小タイトル:偽指導書の手渡しと、内匠頭のロジカル受領
その日の夕刻、吉良邸の奥座敷にて、上野介は浅野内匠頭、亀井茲親の両名を呼び、恭しく指導書を手渡しました。
「これが我が吉良家秘伝の作法じゃ。烏帽子はこのように右に三寸傾け、直垂の帯はこの紺碧の色で締めるのが、最も格式高き作法とされておる。これを守れば、勅使饗応で恥をかくことはあるまいよ、なはは」
内匠頭は指導書を丁寧に受け取り、目を通すと、いつもの涼しい顔で頷きました。江戸の若い大名たちの間でも「冷徹なシステムエンジニア」と評されるその佇まいは、こうした場でも一切揺るぎません。
「なるほど。烏帽子は右に三寸、帯は紺碧。100%ロジカルにインプットいたしました。さっそく我が家臣たちにも周知し、誂えに入らせていただきます」
「ふふふ、よいよい。しっかりと『学んで』くだされよ」
上野介は内心でほくそ笑みながら、亀井殿にも同様の指導書を手渡しました。多胡外記殿は「ありがたきお導き」と頭を下げつつ、その指導書の文言を、頭の中で静かに書き写しておりました。
3.小タイトル:大鼠の夜の使命と、呉服問屋のソソソハッキング
その夜、吉良邸が静まり返った頃、宿直部屋の床下から、見覚えのある「大鼠」がソソソと這い出してまいりました。二章で柳沢吉保の姫君を驚かせた、あの浅野家子飼いの隠密でございます。
大鼠は吉良邸の文箱をくぐり、上野介が「本物の作法」を記した別の書状――勅使饗応で実際に求められる正しい礎装の規定書――の在処を、するすると探り当てました。
そして、その書状の内容を、墨と筆を器用に操って、ハットリ君が事前に用意していた「写し取り用の薄紙」に、月明かりの下でカリカリと書き写していったのでございます。
翌朝、本所の呉服問屋では、当代一の人気者として知られる赤穂藩士・堀部安兵衛殿が、店の主人にこの「正しい規定」をそっと耳打ちしておりました。
「これなる規定にて、烏帽子は左に二寸、帯はこの萌葱色にて誂えていただきたい」
「これは安兵衛様、お久しぶりにございます。承知いたしました。さすが浅野様、勅使饗応の規定にはお詳しゅうございますな」
呉服問屋の主人は、何も知らぬまま、正しい規定に基づいた礎装を、浅野家と亀井家のために手際よく誂え始めたのでございます。
4.小タイトル:盲之助の的外れな一矢・その二、安兵衛の冷や汗
その頃、吉良邸の宿直部屋では、幕府書院番組頭次席として吉良邸に出向中の豪文字盲之助殿が、指導書の写しを虫眼鏡で覗き込みながら、何やらブツブツと唸っておりました。幕府からの出向という立場上、「謎の組織の陰謀」を見つけ次第、いつでも幕閣へ報告できるようにと、盲之助殿は常に気を張っているのでございます。
「むむむ……『烏帽子、右に三寸』……『帯は紺碧』……。ハッ!! この『三寸』という数字、そして『紺碧』という色……これは、綱一坊一派が浅野家へ送り込む刺客の合図に違いないッ! 三寸の刃を持ち、紺碧の装束を纏った刺客が、勅使饗応の場に紛れ込む計画だァァァ!」
盲之助殿はすりこぎ筆を握り、障子に「三寸の刃、紺碧の刺客!」と巨大な豪文字をバリバリと書き殴り始めました。
ちょうどその時、床下を通りかかった安兵衛殿は、この豪文字の音をまた耳にしてしまい、ギクリと足を止めました。赤穂藩の中でも武勇で知られる安兵衛殿ですが、この屋敷の宿直部屋の不気味な豪文字には、いつも肝を冷やすのでございます。
(……『紺碧の装束』……? ま、まさか、こちらが呉服問屋に伝えた『萌葱色』ではなく、別の色のことを言っているのか……? いや、待て、紺碧とは、確か吉良殿が指導書に書いていた偽の色では……)
安兵衛殿はしばし考え込みましたが、盲之助殿の続く言葉を聞いて、すぐに事の真相を理解しました。
「……間違いない! 刺客は勅使饗応の当日、紺碧の装束で吉良邸の北側から侵入する計画だァァァ!」
「……ニンニン。なんと、的が外れておった。盲之助殿は、ただ吉良殿自身が書いた偽の指導書の文言を、そのまま陰謀の暗号だと思い込んでおられるだけでござるか。危なかった、危なかった」
安兵衛殿は安堵の息をつき、ソソソと床下から引き上げていきました。
5.小タイトル:礎装当日の静かな違和感、そして上野介のニヤニヤ
数日後、礎装の誂えが完成し、内匠頭と亀井殿は、それぞれ正しい規定に基づいた立派な装束を身につけておりました。
その様子を遠目に見た高家筆頭・吉良上野介は、ニヤニヤと笑いを抑えきれませんでした。
「ふふふ、見たか小人。あやつら、ワシの教えた通りの装束を着ておるわい。烏帽子は右に三寸、帯は紺碧……これで勅使饗応の当日、あやつらだけが場違いな装束で大恥をかくこと間違いなしじゃ!」
「左様にございますな、上野介様。ふふふ」
小県小人の佑も、主の言葉に頷きながらも、内心では「……あの装束、よく見ると烏帽子は左に傾いておりますし、帯も萌葱色に見えますが……まあ、上野介様がそうおっしゃるなら、そうなのでしょう」と、首をかしげるしかございませんでした。
竪川の水面に夕日が映り込み、本所松坂町は今日も何事もなかったかのように、静かな夏の夜を迎えるのでございました。
【今宵の一句】
偽りの 作法は風に 書き直され
【あっちゅ寝太郎エッセイ】
(吉良殿、せっかく用意した偽の指導書、大鼠とハットリ君のソソソハッキングによって、呉服問屋に届く前にすっかり「正しい規定」へと書き直されてしまったよ。お前が「烏帽子は右に三寸、紺碧の帯」と自慢げに眺めている浅野殿たちの装束、実際は左に二寸、萌葱色になっておるのに、お前にはそれがまったく見えていないねぇ。幕府出向の盲之助殿はまたしても「三寸の刃、紺碧の刺客」と的外れに叫び、当代一の人気者・安兵衛殿を一瞬ギクリとさせたが、結局は吉良殿自身の書いた偽指導書を陰謀だと勘違いしているだけだったよ。さあ、勅使饗応当日、お前の自慢の「コンサル」がどんな結果をもたらすか、お次の第3話、嘘の儀式スケジュールを巡る攻防が始まるよ)




