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第二十六話:ジェネシス

毎日18時更新

 午前九時。

 灼熱の太陽が、上空から、容赦なくアスファルトを炙りつけていた。ミンミン、と鳴り響く蝉時雨は、まるで、これから始まる狂宴の、不協和音のファンファーレのようだ。


 彩星芸術学園の、重い鉄製の校門が、ゆっくりと開かれた。

 その瞬間、堰を切ったように、人々の波がなだれ込んでくる。

 親子連れ、他校の制服を着た高校生のカップル、腕を組んだ美術評論家風の老人、そして、この異様な祭典の匂いを嗅ぎつけた、無数のマスコミ関係者。彼らの誰もが、期待と、そして下劣な好奇心に、その目をギラつかせていた。


 彼らのお目当ては、生徒たちの瑞々しい感性が生んだ芸術作品などではない。社会現象となった、正体不明の犯罪者「アノニマス」が、その最後の作品を発表すると公言した、この事件の生々しい現場だった。


 中庭には、焼きそばの香ばしいソースの匂いと、かき氷の甘ったるいシロップの匂いが、夏の熱気と混じり合って立ち上っている。生徒たちの、楽しげな、少しだけ上ずった呼び込みの声。


 日常と、非日常。

 祝祭と、断頭台。


 その、あまりにも歪なコントラストが、この学園全体を、巨大なインスタレーションアートのように見せていた。


 その喧騒を、何百という冷徹な目が見つめていた。

 観客の中に、ごく自然に紛れ込んだ私服警官たち。相田もまた、ごく普通の女子大生を装い、イヤホン型の無線機からの指示に、神経を集中させていた。


 学園から数百メートル離れた場所に停められた、黒いワンボックスカー。その中で、溝口は何台ものモニターに映し出される監視カメラの映像を、鷲のような鋭い目つきで睨みつけていた。


「……各員、配置につけ。ターゲットがステージに現れるまで、絶対に、動くな」


 彼の低い声だけが、緊張に満ちた、移動司令室の空気を支配していた。



 ◇



 午後二時。

 メインイベントである、「アノニマスの最後の作品」の発表時間が、刻一刻と迫っていた。


 美術棟三階の、空き教室。広瀬未央は、その場所を、自らの最後の司令室と定めていた。ノートパソコンの画面には、校内に仕掛けられた、いくつかのウェブカメラからのカクカクとした映像が、映し出されている。彼女の指は、いつでも自らが作り上げた「情報爆弾」を投下できる状態で、エンターキーの上に置かれていた。


 同じ頃、桐谷海都は、メインステージであるエキシビションホール近くの人混みの中に、その身を沈めていた。フードを目深に被り、マスクとサングラスで、その顔を完全に隠している。彼は、もはや彩星学園のスター、桐谷海都ではなかった。彼は、亡霊だ。友を殺され、自らの魂を壊された、復讐の亡霊。ただ、合図の時を、静かに待っている。



 そして、ついにその時が来た。

 エキシビションホール内の照明が、ふっと、落とされた。数千人の観客の、期待と興奮が入り混じった、どよめき。そして、訪れる、水を打ったような静寂。


 ステージの上に、一本の、強いスポットライトが突き刺さった。

 そこに現れたのは、一人の少女だった。


 橘陽菜。

 彼女は、すべてを洗い流すかのような、純白のシンプルなワンピースを身に纏っていた。その姿は、あまりにも、無垢で、儚げで、これから恐るべき犯罪芸術を、演じようとしている人物とは、到底思えなかった。


 群衆が、息をのむ。あれが、アノニマスなのかと。


 陽菜は、何も語らない。ただ、深く、深く、観客席に一礼した。

 そして、彼女が顔を上げると同時に、背後の巨大なスクリーンに、アノニマス特有の、美しい明朝体の文字が浮かび上がった。


『芸術とは、問いである』


『私の最後の作品は、あなた方、一人一人への、問いです』


『創造とは、何か』


『破壊とは、何か』


『その境界線は、どこにあるのか』


 そして最後に、巨大な文字で、テーマが映し出された。


『創世記』


 陽菜は、ステージの中央に置かれた、小さなテーブルへと歩み寄った。そこには、一本の真新しい絵筆と、黒い液体で満たされた、ガラスの小瓶だけが置かれている。


 観客の視線が、その小瓶に集中する。毒か。薬品か。

 陽菜は、その小瓶を、静かに手に取った。

 そして、ゆっくりと、その蓋を開ける。


 彼女は、その黒い液体を、自らの白い手のひらに注ぎ始めた。それは、ただの純粋な墨汁だった。

 黒く染まったその手で、彼女は、ステージ中央の巨大な真っ白なキャンバスへと向かう。

 そして、躊躇なくその手形を、キャンバスのど真ん中に、強く押し付けた。


 ペタリ、という、生々しい音。

 純白の世界に刻印された、一つの、黒い、罪の痕跡。


 それは、始まりの合図だった。

 だが、陽菜の行動は、そこで止まった。

 彼女は、キャンバスから一歩身を引くと、観客席を、じっと見つめた。まるで、誰かを探しているかのように。

 そして、背後のスクリーンが、再び、その文字を映し出した。


『この作品は、共同制作です』


『私の協力者は、この物語を、誰よりも、深く理解している』


『彼女は、その始まりを目撃し、そして、その終わりを、見届ける義務がある』


 次の瞬間。

 スクリーンに、たった一人の名前が、巨大な文字で映し出された。


『広瀬未央』


 観客席が、どよめいた。

 ステージ上のサーチライトが、観客席を、ゆっくりと舐めるように動き始める。


 その光景を、空き教室のノートパソコンの画面で見ていた未央の全身から、血の気が引いた。


 罠だ。

 これは、陽菜が仕掛けた、最大の、そして、最も残酷な罠。


 彼女は、自分を安全な観客席から、この狂った舞台の、ど真ん中に引きずり出そうとしているのだ。

 自分の計画は、すべて、見透かされていた。そして、その計画さえも、彼女のこの最後の作品の一部として、組み込まれてしまっていたのだ。


 サーチライトの光が、じりじりと、自分たちのいる美術棟のほうへと、近づいてくる。

 もう、逃げられない。


 未央は、エンターキーの上に置かれた自らの指が、鉛のように重くなっていくのを、感じていた。

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